石ころ

「ありがとうございます」だけ (ヨブ記1:1~10)



 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

彼は自分自身のことで悩む必要はなかった。正しく生きることが出来ることは大きな祝福だ。清々しく生られることは何にも増して素晴らしい。それであって彼は大変な富豪であった。
7人の息子と3人の娘にも恵まれ、子供たちもそれぞれ豊かな環境で互いに行き来して仲良く暮らして居る様子が書かれている。

サタンが、「彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、(神様が)垣を巡らした」このように表現するほどの祝福であった。
しかし、ヨブはこれほどの祝福の中で思い煩っていた。

こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。
ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。


 家族は愛おしい。親にとって子供や孫は何にも増して愛おしい。久しぶりに見る孫の成長は眩しい。子供は数ヶ月で成長して変わって行くことを改めて認識。
今回、末っ子の我慢強い優しい振る舞いを何度か見て「成長したなぁ・・、決めつけてレッテル張りをしてはいけないなぁ・・」と思わされた。お姉ちゃんはずっと本の虫、側にいるだけで嬉しいけれど・・。
家族に労られその温かさの中に居ると、その関係をいつまでも抱きしめていたくなる。それは、不完全な自分の愛に苛立つことにもなり、せっかくの楽しい思い出を思い煩いによって曇らせてしまうことにもなる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

そんなことを考えている時みことばを思い出し、この言葉が神様の愛に満ちた言葉であることに気付いた。人の不完全な愛は愛を完成しないから、キリストの完全な愛を拠り所として愛するようにということだと。
すべてをあがなったよみがえりのイエスさまは「平安があなたがたにあるように」と何度も言われた。

不完全な愛は不安定で、その欠けを満たそうと頑張ったり思い煩ったりする。そうして愛を変質させてしまう・・。永遠のキリストの愛に頼って信頼して委ねることがなければ、人の愛は完全ではなくそこには真の平和はないのだ。


 ヨブは、子ども達をも愛しおられる神様の愛に安息するべきであった。そうして神様の守りの垣の中に繁栄して、子ども達と喜んでいるべきであった。
彼は子供たちを愛するあまり、神様から守ろうとしているよう感じられる。これは子供を神様から取り上げて自分のものとしていることだ。誰も神様の愛に勝る愛を持つことはないのに・・。

このことはゴールデンウィークが終わって、「もっとああして上げれば良かった。こうして上げようと思っていたのに・・」なんて、反省しきりの中でふっと気付かされたことであった。
せっかくの祝福の喜びをそのままに残せば良いのに。
受けたことをそのままに喜んで、何も付け加えず心に記念とすることは主へのお礼であり、気遣ってくれた子ども達へもお礼となるのに・・。

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コメント一覧

ムベ
gorouさんコメントありがとうございます
造り主を賛美することは祝福です。
賛美を聴ときも、心が震え神様の祝福を覚えます。
人が造られたときの、深い所にある記憶が共鳴するのだろうと思います。

これからも宜しくおねがいいたします。
gorou
主よ憐れみ給え
バッハのマタイ大好きです。
特に、アリア(主よ憐れみ給え)は喩うようもなく美しい曲ですね。
イエスの真言を伝える者達を伝道師と言うそうです。わたしも何かを後世に伝える者に成りたいと願っております。
そして、読者登録有り難う御座います。
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