石ころ

ヨブの心に沈んでいた言葉




 神様はヨブの心の底にある思いを知っておられた。平和な時には沈んでいる肉の思いも、何かあると吹き出してくる。それは本人さえも気付いていないけれど・・。
だから神様はヨブを義に導くために、すべての言葉を吐き出させてヨブ自身に見せなさった。清くあるためには、内に潜む汚いものを叩き出さなければならない。そうしてヨブの一番強いところに根ざしている、彼の正しさが砕かれたのだ。

ヨブがすべてを吐露し終えたときに、神様はヨブに向かって創造主なるご自身を語ってくださった。
だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。(ヨブ記41:11)

無条件でわきまえるべき真理だ。しかしそのことを神様が直接語られたことにヨブへの愛の深さを思う。神の創造が語られる38章からの長い箇所は、まるで母が絵本を読み聞かせるようである。
天地創造の神が、近しくひとりの人に語ってくださったのだ。なんと光栄なことだろう・・と感動する。

 実は、このみ言葉は私にも信仰の大きな痛みの中で示された言葉だった。その時は何故に鞭打たれなければならないのか・・その理不尽さが分からなかったけれど、主権者としての神様を経験した時であった。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(ヨブ記42:5)

この箇所を読むと「なんと幸いなことか」と思う。主の叱責は無視よりはるかに幸いだ。それは、守りの中で導かれていたことを知るからである。初めから主の御目が注がれていたことを知るからである。

 愛する子供たちが取り上げられたのは、ヨブが神様から子らを守ろうとしたからであり、それゆえ主は取り返されたのではないか・・と思った。主が取り返されたのなら、彼らは主の元に帰ったのだ。

ヨブの子たちは宴会を自分たちでできる大人なのだから、自ら主に捧げものをすることができるのだ。ヨブは彼らの信仰を主のお導きに委ねるべきであった。
神様に身代わりとして取りなすことができるのは御子イエスだけである。

しかし、私もつい息子の信仰を導こうなどと思って、主と息子の間に立って失敗することがある。息子に信仰の近道を教えたくなるのだ。愚かなことである。

ヨブに新しく素晴らしい子ども達が与えられたヨブ記42章13節を、私はすんなりと喜べなかった。
「亡くした子供の代わりに、もっと素晴らしい子供が与えられたからと言って嬉しいわけがない」と思ったからである。
しかしそれは傲慢なことであった。

「主は与え、主は取られる」のである。
「主の御名はほむべきかな」である。
自分自身の心を打ち砕いても、神様に賜るままに受けて喜ぶのが造られた者である。

ヨブの信仰告白を、主は最善に実現して返してくださったのだ。そうして、彼はすべてをそのままに受けたのである。主にお会いして、聖められた心の底からの喜びの中で・・。

今私たちは、十字架を通して神様の御愛を経験しており、聖霊の守りと導きがある。ヨブよりも遙かに主を知ることに置いて恵まれているのだ。

この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。(ヨブ記42:16~17)


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