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石ころ

ベテスダの癒し 3

ベテスダには、多く病人がたむろしていたのに、癒されたのはひとりだった。
イエスさまに「良くなりたいか」と問われて
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスさまも知らず、人を恨むような泣きごとしか言えなかった男。でも、彼は切実に癒されたいと願っていた。だから満たされた力を即座に用いて、安息日に床を取り上げて歩いたのだ。

彼が選ばれた理由に思いを巡らせていた。
38年間も誰も助けてくれる人がなく孤独だった男。だから池に一番に入る力のない彼には、良くなる望みは一切なかった。そして、そのことを彼自身はきちんと自覚していた。

では、他の病人達はどうだったのだろうか・・イエスさまに選ばれなかったということは、彼らには望みがあったのだろう。
仮に事実は望みが無くても、本人にはその自覚がなかったし、癒されることをすでにあきらめてしまっていたのかもしれない。

「今日は失敗したけれど、次はもう少し素早く飛び込もう・・頑張って一番になろう!」
「明日には助けに来てくれる人が居るだろう。」
「友達もできた。みんなで一緒に此処にいるのもそれほど悪くはない。」
なんて・・彼らにはイエスさまは必要なかったのだろう。

イエスさまの癒しを得るための必要な条件は、「イエスさま以外には、ひとかけらの望みもない者」それだけ。人の信仰から始まるのではない。信仰は本当にイエスさまを知ったときから始まるのだから。

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(ヨハネ5:39~40)

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