それも、豊かに12籠もパンくずが残るほどとなった。
イエスさまに持って行く。それが絶対の条件。少年が自分の力で分け与えても、それこそなんの役にも立たなかっただろう。彼がどんなに優しさにあふれて親切に分け与えたとしても・・。
だから此処で少年の名前も知られず、5,000人の人々が彼の存在を知らないことには何の問題もないことになる。
彼自身は、自分のお弁当が用いられた喜びが心を満たし、大きな驚きとわざを成されたイエスさまへの深い信仰を育んでいただろう。イエスさまのみわざにふれた者には、もう、人のほめ言葉なんかいらないのだ。
もし此処で、「みなさん。あなた方の食べているこのパンは、この少年が捧げた物なのです!」なんて言って、拍手でも起ころうものなら、すべてがぶち壊しになってしまう。折角の清い満足に汚らわしい混ぜ物が入り込んでしまう。
人は弱いのでこの少年はとんだ勘違いをしてしまうかもしれない。何よりも恐ろしいことは、イエスさまのわざを完全に消してしまうこと。
非常に大切なことは、単純にいつもいつもイエスさまだけがほめたたえられるべきである。そうなら、すべてが聖く染みも傷もない状態に留まっているだろう。
あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。(詩編4:7)
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