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石ころ

イエス様のたとえ話



 聖書を読んでいて「何だか変だあ・・。」と思ったことがあるけれど、そのままに流してしまわないで、そこで立ち止まって主に聞いてゆくことが如何に大切であるかを教わった。それは神様の奥義を「本当に知りたいか」と問われていることだから。

 「畑に隠された宝を見つけるとそれを隠しておいて畑を買う。」単純に文字通り理解するとき、私はこのストーリーにはついていけなかった。単純に「それは狡い事でしょう。」と思ってしまう。イエス様がなぜそんな言い方をされるのだろうと思っていたけれど、メッセージから「?」が解決してとても嬉しかった。いつも教わるけれど、3つのたとえ話を総合的に読むことの大切さ、みことばをみことばから解き明かされることの大切さに目から鱗。

 人には誰もイエス様の価値は分からなかったこと、また私たちは買い取る代価を持ってはいないことに気づかされて「ああ、そうだった」と心から「アーメン」することができた。畑を買い取ってくださるのは主。本当に神様はひとり子の御子のいのちを持って買い取ってくださった、私たちはそういう畑。なんの良いところのない畑だけれど、聖霊が豊かな実を結ばせてくださる。それこそ神様の宝。

 その宝は、養殖真珠のようにドブ貝から出来ているかもしれないけれど、それをアコヤ貝が自分のからだを傷つけて、その体内で時間をかけて何層にもコーティングして育ててゆくようなもの。それがただ一つの教会。

 「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
弟子たちは御国の学者であり、新しいものとは目に見えない御国と福音の奥義であり、古いものとは、律法と目に見える被造物の世界であって、そのふたつの世界を行き来するための鍵がイエス様の「たとえ話」だという。深いメッセージにとても感動をした。

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