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石ころ

洗礼式





同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。(Ⅰペテロ3:1) 1984年1月15日

 教会に行き始めたばかりの私が教わったみことば。
釣り合わぬくびきを負うことにとまどう私に「このようにしてください。」と示してくださったのだった。教えてくださったのが白人の女性宣教師であったことと、まるで封建時代のようなことばに驚いたのだけれど、みことばの重さはしっかりと残った。

そのみことばは救われた私と、未信者の主人との間に常にあり、私の魂の避け所となり余計な重荷を負うことからの解放でもあった。みことばに従ったのだから、私には責任はないのだ・・そんな聖なる居直りであった。
万事に盲目的に従うということではないけれど、重要なことがらはどんなに危うく見えても、主人の言葉を重んじることにして来た。


 主人が始めて礼拝に出席したのは2001年12月16日のことだった。
「誕生祝いに、主人の礼拝出席をプレゼントしてください。」とそっと祈って来たのだった。礼拝堂に主人が入ってきた時の嬉しさを、私は良く覚えている。

それまで、誕生祝いに花束や、手袋などをプレゼントしてくれていたけれど、その日の神さまからのプレゼントは、聖書に日付を記すほど嬉しかった。
今、その日のことを懐かしく思い出し、主の憐れみ深さに感動を新たにしている。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:25)1991年10月26日


 次男も出席するために帰って来きてくれて、共に家を出るときには雨催いであり、途中からかなり降ってきた。どうせ濡れるのだからいいけれど・・なんていいながらも、ちょっとがっかりした気分だった。

川での洗礼が予定されていたけれど、台風でそれは変更になった。また、前日に主人は蜂に刺され、腕の付け根まで激しい痛みに襲われた。幸いリンパの腫れはすぐに引いて、連絡した医院に診察はもう結構です。と電話するほど軽くは済んだけれど・・。
洗礼が決まってから私たちには、もろもろ危ういことが続いて、大変にしんどい思いをしていた。

天候も虫さえも、主のご支配の元にあることを私は信じている。主が最善に準備されることを待つなら、必ずご自身を現し勝利を取ってくださると信じている。
しかし、主を知ることの幸いと、魂的な不安が激しく交錯するような期間だった。あまり眠れず、夜中にも、早朝にも祈りの中に居た。他に居場所がなかったのだ。
人には言葉にもしなかったけれど、主とはいっぱいおしゃべりをしていた。

眠れなければ祈って居ればよいのだと・・、主がサムエルを起こされたように呼んでおられるのだろうと・・、心に思い浮かぶすべてのこと。また霊の祈りによって祈り続けていた。
ただ、もうこのようなしんどさはごめんだと思ったのも事実である。


 その祈りの中で、私は教会においてどの様な関わり方をするべきなのか・・という悩みに答えを頂いた。それは、「あなたに居られる聖霊に習いなさい。」だった。

私に居られる聖霊とは・・、私が心の中で犯すすべての罪、すべての汚れや、弱さを聖い御目で見ておられるお方である。いかに不信仰であるかを知っておられるお方である。
しかし、ご自身の聖さを押しつけなさることはなく、この罪人に溶け込むようにひとつとなってくださっている。だって、私はその方に遠慮や気兼ねをしたことさえなかった。

導き教えてくださるけれど、出来ないことを訴えられることはなく、見捨てることが出来ないお方。
驚くほど忍耐強くどんな時でも共に居てくださって、依り頼む時には味方でいてくださるお方である。

 私は答えを得て安心した。そんなことが出来るわけはないけれど、主がビジョンを与えてくださるとき、必要を備えてくださることは知っている、それは何処を見ているかという問題だと思うから・・。

そのような時、ある姉妹から洗礼のお祝いが送られてきた。「駆けつけたいのだけれど・・、ちょっと遠くて」そのような嬉しい言葉もくださった。
驚きと喜びがいっぱいになった。それは祈られていることの安心、主人とふたりで喜びに包まれた。もう、しんどいときは終わっていた。

 礼拝が進んで、教会の表に準備された洗礼槽に向かう時、燦々と太陽が輝いて「ああ、すごい!」って、口々に主に向かって感嘆の声を上げることとなった。

プレゼントや花束を頂いて家に帰ったとき、「みんなに祝って貰ってこんなに嬉しいことはない。それに、なんかすっとしてとても楽になった。」と言ったので、ああ、主人も苦しかったのだと思った。

これで我が家もクリスチャンホーム!
同じくびきを負って、残りの人生を共に歩めることはなんと幸いなことだろう。また、永遠の望みが確かにされたことも、なんと幸いなことだろう!


わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。
わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。(イザヤ57:18~19)1986年7月

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コメント一覧

ムベ
まこさん祝福してくださって嬉しいです
はい。主を真ん中にして、一緒にみことばのご真実を味わってゆけることは心から感謝です。

思い煩う者にもわかるように、主はご自身を現してくださいます。そんな慰めに満ちた陽射しでした。
そのような主が甘くて・・もう何も要らないと思います。

まこ
おめでとうございます
本当に本当におめでとうございます
喜びと、ホッとし安堵した気持ち、感謝と賛美と、感動とで胸いっぱいでしょうね
これからは、夫婦であっても主を真ん中においた兄弟姉妹でもあるんですね
太陽が燦々と輝いたなんて、なんという祝福でしょうか
これからの人生、主の恵みをお二人で堪能なさってくださいね
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