それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。(マルコ9:2)
主は12弟子の中からも、高い所に導いて行く者を選抜される。選ばれる条件はみことばを聞き流すことが出来ず、真剣に主を知りたがっている者であること。
失敗をして「サタン」と叱責されたペテロも選ばれた。此処で主に在っての失敗はちっとも恐くないことが分かる。真に恐れるべきは放っておかれること・・。
ペテロが、間違って思い描いていたキリストの真の姿を見せて下さったイエスさま。この世の王ではないということを・・。
イエスさまに、幼稚であることを知られてもちっとも取り繕う必要はなし、黙ってしまうこともない。イエスさまはとても忍耐強い最高の教師だから、はっきりとわかるように教えて下さる。
しかし、どれほど説明をされても人の知性には理解出来ないことばがある。イエスさまが「殺されること、三日の後によみがえること、」を以前に伝えておられたのに、彼らにはまだそのことばの意味が分からなかった。
さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。(マルコ9:9~10)
バベルの塔以来、同じ民族同じ言語を用いる同じ環境であっても、言葉に不自由を感じない人はいないだろう・・。
どんなに親しくても完全に相手の言葉を理解することは不可能で、言葉がきちんと伝わらないところからあらゆる争いが起こっているように思う。
しかし彼らもペンテコステの後には、主のおことばをすべて理解することができた。霊のことはなおさら、イエスさまの助け聖霊により、人の霊の深いところに語っていただかなければわからないのだと思う。
そうでないと、「幕屋を造りましょう」なんてペテロの言葉のように、まったくちぐはぐなことを語ってしまうことになる。
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