そのとき、主は私に言われた。「前のような石の板を二枚切って作り、山に登り、わたしのもとに来い。また木の箱を一つ作れ。(1)
主はモーセを御許に呼び民との関係の回復を与えられた。主がモーセの癇癪を赦し民の偶像礼拝の罪を赦して、選びの民としての契約を再び備えてくださった。
主に呼ばれる時はなんというチャンスであろう。それはみことばをたまわる時だからである。今私たちの罪に曝されている日々に、繰り返して呼んでいて下さるのは創造主の愛ゆえである。
朝毎に、また昼も夜も失敗から守るために、悪魔に騙されて妬んだり恨んだりして心を傷つけないために、キリストの平安のうちに留まるためにみことばを語り掛けていてくださる。眠っているときも霊のうちに新しい明日を備えてくださる。
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。(Ⅰテサロニケ5:10)
私たちは生きている限り繰り返し繰り返し、神は関係回復のチャンスを与えて下さる。御許に行くたびに新しくされることによって、永遠に変わることのない神の愛を経験するのである。その時、御子イエス・キリストの十字架の血潮による赦しをこの身に味わうのである。
その板の上に、わたしは、あなたが砕いたあの最初の板にあったことばを書き記す。あなたはそれを箱の中に納めよ。(2)
モーセが作るのは従順のための箱である。人の言葉や感情を差し挟まない従順のための箱である。其処に神のことばを納めるとき、今後モーセは民のうちに何を見ても、もう主の契約を壊すことは出来ないように、神が守られる契約の箱である。
人は、自分であれ他人であれ人を見ると躓く、人を見てみことばを否定することさえ起こる。しかし、誰が行いによって神を現わすことなど出来るだろう。
アブラハムさえ、モーセさえ、ダビデさえ、ヨハネやペテロやパウロさえ、聖書には彼のある面を見て躓く事実がありのままに記している。
キリストが覆ってくださらないと、キリストの赦しの権威に拠らないと、誰も主を告白することは出来ず、キリストを証して生きることなど不可能である。それは人が未だに罪の体を着ており、魂は主を求めて呻きつつ生きる命だからである。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ8:23)
主は人が罪に弱い塵に過ぎないことをご存じである。それゆえに箱を用意していてくださる。世に在る私たちの箱はキリストご自身。過去、現在、未来の罪を贖われて、何時も主を出入りして新しくされ、御許に行くまで主の平安の中に守っていてくださる。
そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。(3)
モーセは主に聴き従ってすぐに箱を作り、石板を抱えて主の元に登って行った。主の御用をする者は主のことに専念する。
仮に主が待てといわれても火の柱雲の柱が動いたら、時を逃さず主の祝福を受ける山に登るためである。
主はそれらの板に、あの集まりの日に、山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書き記された。主はそれを私に与えられた。
私は向き直って山を下り、それらの板を、私が作った箱の中に納めた。主が私に命じられたとおり、それらはそこにある。(4)
モーセは再び四十日四十夜御もとに在って、回復のみことばを受けて山を下りて来た。そうして彼は、主に従順して備えた箱の中に神の選びの民のための契約を納めた。
やがてキリストを迎え、彼らがその箱を見ることはなくなっても神のご計画は変わることなく、試練の中で強いうなじを打たれて御前にひれ伏し、永遠の御救いを得る選びの民である。