風見鶏はとは世の風向きによって動く定見のない人・・ともあるけれど、キリスト者は世の嵐の中で、聖霊によってイエス・キリストを常に指し示す風見鶏。
世の問題に吹き回されることなく、聖霊が語ってくださるキリストの言葉を提示する。
たいがいの問題は、心や体に絡みつく死の絶望から出ており、罪の結果である死から解放してくださるのは、十字架で人の罪をあがなわれたイエス・キリストだけである。
救いのわざは主のなさることで、その人が信じたみことばが成就するのであり、キリスト者はキリストの土台に据えられて、十字架の完全な救いのありかを示すだけである。
罪から発した悲しみ、恐怖、飢え、行き詰まりは、主が救いのために用いられる道具でもある。
頑なな者も、生きて行けなくなるところまで追い込まれた時、カインのように「私の咎は大きすぎて担いきれません」(創世記4:13)と、救いを求めて主にひざまずくかもしれないからである。
私はそのようにして、滅びから平安ないのちに移していただいた。
キリスト者にある確かな望みは一つ。救い主を知らせることができる望みである。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)
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