不思議なことだけれど、キリスト者は三位一体の神さまの中に在って、また、私たちの霊のうちにも居てくださるとある。それは霊によって知ることだが・・。
罪在る者が十字架の血潮に洗われて、罪の債務証書を無効にして頂いて、神さまとの平和をたまわり、この霊にいてくださるのである。
このみことばは、感覚で知ることも感情で知ることもできない。どのように見積もるかは信仰によること。割り引くならそれがその人には事実となり、そのまま感謝をして信じ受け入れるなら、その人に神の奇跡は事実となる。
携挙の日まで霊の豊かな交わりによって、霊は平安に守られる。そうして世のうめきの中でも、先立つみことばによって感謝と望みを失うことはない。
日々みことばを確認して、霊はうちに居てくださる方の御声を聞きながら生きる。どんな危急のときも世の必要や、心の守り慰めも備えてくださる。
あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。(ヨハネ17:26)
だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。(Ⅰヨハネ2:23)
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる(ヤコブ4:5)
天地を創造された神がキリスト者と共に居てくださる。此処がキリスト者の拠って立つ所である。救われた者が見るのは、キリストが完了された救いであり、付け足すものが何も無い完成度である。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)
完全な御霊のからだをたまわるために、今は、血肉の体では見ることのできない方を信仰によって、携挙の日に真に見えることを待ち望んでいる。
このことは漠然としたことではなく、この世の目に見えるどんなことよりも、みことばに在って明確なことであり、キリスト者にはリアルなのである。それを確信させるのは聖霊である。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(Ⅱコリント5:5)