「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。」
どうしてただ通り過ぎるおつもりだったのかと考えてしまった。夜中の3時頃なら、弟子たちは本当に身も心も疲れ果てていただろう・・。イエス様がそのことをご存じないはずはないのだが、それでも、イエス様のお姿を見るだけで彼らには十分だということなのかなあ・・。でも、彼らにはイエス様が見えなかった。
自分たちの力で、風や波と戦い続けていたからだと思った。私は自分の力で頑張っているときイエス様を忘れている。そんな時イエス様が側を通られても気が付かないだろう。そして弟子たちのように疲れ果てている闇の中なら、恐れて逃げるかも知れない。イエス様が見えないということは、本当に闇の中だということだから。
弟子たちはこの時、手を止めて思い出せば良かった。イエス様が先ほど食べさせてくださったパンのことを。そしたら、側を通られるイエス様を見ることが出来ただろう、そして平安に湖を行くことが出来ただろう。それが、イエス様のご計画の通りだったのじゃないかな・・。
奇跡だけでは信仰は保てない。パンをお腹いっぱい食べて味わったとしても、世のちょっとした波風ですべて忘れてしまうから。
イエス様の「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」そのお言葉を聞くまで私たちは恐れ続ける。
今、私たちが聖書を開くとき、イエス様は信仰のない私たちの中に来てくださって、おことばをかけてくださる。真実な力あるみことば。平安と希望を与えて、この世の波風から救い出してくださる。
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