石ころ

花嫁(申命記21章)

 

 奴隷であっても花嫁とする時には、その人格が妻として整えられる時間を与えて、夫には一カ月待つことを命じられた。全ての事の中で初めに主の導きに従うなら、そこには神の平和がある。

 

彼女をあなたの家の中に連れて行きなさい。彼女は頭を剃り、爪を切り、
捕虜の衣を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところに入り、彼女の夫となり、彼女はあなたの妻となる。(12~13)

 

女性は自分のアイデンティティに思いを致し、その生まれに決別のための時間が与えられて嫁いで行くのである。其処には奴隷ゆえの縛りが在っても、真の神の愛と守りに出会う時である。

 

もしあなたが彼女を気に入らなくなったなら、彼女を自由に去らせなさい。決して金で売ってはならない。あなたはすでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。(14)

 

夫は妻に気に入らないところがあっても、二度と奴隷として扱うことをせず、女性は解放されて自由が与えられる。それも神の御手にある自由を得たのである。
主は彼女が再び奴隷として売られないように守り、愛の無い結婚の縛りからも解放されたのである。

 

 世で生きる時、真の自由の中で終生生きることは不可能である。自分や愛する者の命を守るために、諸々のしがらみによる不自由に耐えるストレスは誰もが経験している。

仕事に於いては、人生の多くを職場で仕えて働き続け、辞める自由はあっても、簡単にはそれを行使できるわけではない。

家族関係においても、罪ある身には互いに愛に渇く者であり、何時も望む愛を満たし合うことは難しく、一つ間違えると支配に耐え続けるということも起こる。

友人関係にも、孤独を恐れて「イエス」を「イエス」、「ノー」を「ノー」と言う自由がなければ、調子を合わせて行動するばかりで、それぞれのペースで成長することには手かせ足かせとなる。

奴隷と主人というほどに極端ではなくても、世では縛り合うことで人間関係が存続し、罪を持って人が寄れば支配があり奴隷状態も生まれる。

 

 しかし神が介入されるときその関係は一変する。命のための遣り繰りからは、主が心配してくださることを経験して自由になり、孤独はキリストの愛のみことばを握って満ち足りる時、人格が支配されるような関係から解放される。

 

それは死ぬことを恐れなくなるので、自分の命のために世に妥協しなくても良くなるからであり、明日のことを思い煩って理不尽に耐える必要がなくなるからである。

 

キリスト者は、キリストの命によって買い取られたキリストの奴隷である。キリストの救いによって天に永遠の住まいを持っており、もう決して、自分の命のために何の奴隷になることも無いのである。

 

キリストの花嫁として主に嫁ぐ日を待つ身であり、そのアイデンティティはすでに天にある。世に在る今も、永遠のいのちの約束のみことばを握って、主にたまわった自由の中で魂は安息しているのである。

 

「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙22:20)


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