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石ころ

「食べもの」

 今日、礼拝で食べ物のことを話された。私も先日からずっとそのことを考えていた。礼拝に行く間も電車の中で考えていた。農薬餃子の事件からも思うことは多い。また、イージス艦の事故以来、私の好きなお魚を頂くことの重さについても考えてしまう。

 夫や息子を海に送り出す過酷な日々を送って居られる女性が居られ、彼らが本当に命がけで捕ってくださったお魚だった。恥ずかしいことにそんなことをあまりにも考えていなかった。とかく美味しいか不味いかとか、安いか高いかとか、輸入物か国産か、そんなことばかりに気を取られていた。本当は輸入でも国産でもその労働のありがたさには変わりはない。

 料理は愛の形でもある。最近の家族の体調や季節や好みを考えて毎日作るもの。もし、この作業が単なるお金の価値だけで計られて終わりなら、なんと空しいことだろう。今と同じ気持ちで作り続けることはとてもできない。そんな作業を他国の人に押しつけているのなら問題が起こることは当然だと思う。作ってくださった方々に感謝をどのように伝えることが出来るのだろう・・。以前は食堂でもお金を払うときに「ごちそうさま」とお礼を言ったと思う。

 昔は、一粒のお米粒も無駄にはしなかった。それはお百姓さんの労苦を思うからだった。お釜を洗った時に米粒を流すことはいけないことだった。それを取って置いて洗濯の糊として使った。酸っぱい臭いがしていることもあったけれど・・。

 それがいつの間にか、腹立ち紛れに料理をゴミ箱に捨てるようなドラマを目にするようになってしまった。私は「冥加に悪い」という言葉を捨てられないでいる。それでも、知らず知らずのうちに、賢い主婦のやりくり術などと、如何に安く買うかなどとそんなことにばかり気持ちが奪われていたように思う。

お金に心が奪われると大切なことが分からなくなってしまう。食べ物を備えてくださった主に感謝をして、それを労苦して捕ったり育ててくださった方のことを覚えて細やかな心を持って大切に食べなければいけないと思う。

 
「食というのは単なる栄養源ではなく、キリストのいのちによって養われること、またその喜びをともに分かち合うことの象徴なのです。」saltさんのメッセージより

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