石ころ

弟子の条件③(ヨハネ18章)

 

 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。
しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」(18:38~39)

 

「あなたがたのためにイエスを釈放する」という提案を、ユダヤ人は拒否した。この拒絶は神のご計画と一致していて、彼らは真逆な意図をもって、みこころを選んでいたことになる・・。

 

神の選びの民一人ひとりが、十字架のあがないによる聖霊の導きによって、イエス・キリストを礼拝するようになり、豊かな救いの実を結びますように。神の初めのご計画が成就いたしますように。

 

 ピラトはイエスの無実を知って解放する手段を模索したが、イエスが来られたのは、この世に平和をもたらせるためではないことを知らなかった。

 

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(10:34)

 

滅びゆく世に浸っている者の目を覚まさせ、罪を嘆いてキリストを求めさせるために来てくださった御子イエス。偽りの中に滅びゆく者ではなく、永遠の真理を求める者として、造り主の身許に呼び寄せるためである。

 

 人の死が天国につながっているのではない。その嘘に隠されている滅びをさらけ出し、悔い改めに迫ることがなければ、救いを得させることは出来ない。罪の歴史にある偽りを剥ぎ取ることから、救いのわざは始まるのである。
そこで、キリストは聖い御体にすべての罪を着せて、十字架によって葬ることから始められる。

 

彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。(18:28)

 

食事のためには厳密に律法を守るが、「殺してはならない」は守られなかった。彼らは確かに殺すことは無かったが、イエスを殺させた。彼らの宗教はこのようであった。
すべての宗教には言い逃れの道が備えられているから、キリストには至らないのである。

 

 ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(37)

 

「わたしの声に聴き従います」それは、うちに来てくださったキリストが導いてくださることゆえに、自分自身をお委ねしたキリスト者には必ずそのようになる。みことばへの従順は、平安のうちに主が完成させてくださることである。

 

「あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」というピラトの思い付きが排除された時、彼はキリストを無実の十字架刑に処す役割を負わされた。

すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。(40)

 

偽りを愛して真理を嫌悪する者が、キリストではなく強盗を愛するのは、悔い改めを迫るキリストに追い詰められる側から、罪を責める側に回るためである。

 

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。


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