主に感謝のいけにえを献げるときは、あなたがたが受け入れられるように、それを献げなければならない。
その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。
あなたがたはわたしの命令を守り、これを行わなければならない。わたしは主である。(29~31)
主に捧げたものを頂くことは主の振る舞いである。それは主の食卓に招かれた宴会であり、余さずに食べ切れるように人々を呼び集めて、気前の良い主の御救いを共に味わい喜ぶ歓喜の時である。
主のたまわりものを明日に取り置くことが出来ないのは、恵みは日ごとに新しく備えられ、「今日は何をたまわるのだろう」と朝を待ち望む者を育てて、一人ひとりに準備してくださった今日の備えを受けるためである。
それらの日々に在っても、自分の足りなさや弱さによる失敗は常にあるが、その時もみことばは私たちを平安に導き、神が味方であることに安息する。神の力によって生きる者の弱さは、キリストに在って神の力を持っているのだ。
キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(Ⅱコリント13:4)
人から教えられた言葉を語るなら自分で責任を負う必要はなく、語った人の名を示して済むことである。
しかし、聖霊を通して教えられたみことばを語る時、自らの不信仰を恐れて心が揺さぶられるのである。
それは人が聖霊を証することは出来ず、聖霊が私たちを神の子と証してくださるまで、沈黙のうちに、生きて働くみことばの力を待つことになるからである。
でも、その時は主との深いお交わりの時であり、その信頼関係の甘さを一度味わうと、病みつきになるのだけれど・・。
たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。
愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。(Ⅰヨハネ3:20~22)
神の命令は宣教であり、それは神に喜ばれる最大のものである。しかし、私たちは自分の中に人に与えるべき良いものが何も無いので、すべて神から頂かなければならないのだ。
誰もみことばを信じさせる術など持ってはおらず、聖霊を通して成就されて行くみことばを、口移しのように主から聴いたままに伝えるのである。
わたしの聖なる名を汚してはならない。イスラエルの子らの間で、わたしは聖であることが示されなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。(32)
御名を汚す第一は、聴いたみことばに混ぜ物をすることである。悪魔、悪霊どもはこの世のことに精通しており、人の心がそれらに興味津々であることを知っている。
それらは世の知恵を語らせて、十字架のことばに覆いを掛ける。それゆえみことばには、聴いたままに語る愚かさが必要なのである。
世を語ることはすべての人の興味を引き、この世の身の処し方を教えもするが、神のことばはすべて聖霊の助けを通して働くのである。
聖霊が導く聖さへの渇きと、キリストを求める弱さと、生きて働くみことばを、待つことが必要であり、この時間こそが、主との関係を育み永遠まで導くのである。
スマホの通信障害で大騒ぎになったが、昔は手紙を出して一週間くらい返事を待つことは当たり前であり、どんなに気掛かりであっても、淡々と日々の仕事をこなしつつ待ったのである。
今の世は、あまりにも「待つ」経験を養う場がなくて、気掛かりである。便利とは本当に良いものなのだろうか・・、しかし時は一方通行である。
御名を汚すのは、神を自分の貧しい物差しで計ってケチだと思うことであり、明日は分からないと心配することである。その言葉と行いによって主を貶める時、測り知れない神の栄光を、世が目にすることはなくなる。
わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した。わたしは主である。(33)
キリスト者の神は天地創造の神であり、万物を支配して天地を保って居られる方である。すべてのものを持っておられ、信じる者の必要を溢れるばかりに満たすお方である。
信仰によって日々に新しいみことばを示して養い、主に似た者へと造り変えておられる。それらの朝は初めて経験する新しい日であり、主が御わざを行われる特別な日となる。
交わりによって日ごとに成すべきことを導かれ、みこころを行うとき成功によって学び、失敗によっても学ぶが、少しも変わらぬ平安に住んでいるのは、主が共に働いておられることを知っているからである。
(古い人を脱ぎ捨てて)あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。(エペソ4:23~24)