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石ころ

睡魔

「ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
パウロは降りて来て、彼の上に身をかがめ、彼を抱きかかえて、『心配することはない。まだいのちがあります。』と言った。
そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、明け方まで長く話し合って、それから出発した。
人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。」使徒20章から

「ひどく眠気がさして」という言葉にゲッセマネの祈りを思い出す。十字架を目前にされたイエスさまと共に祈り続けることは誰も出来なかった。

「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。(マルコ14:37~40)

 強烈な悲しみ、肉の弱さを抱えて生きることの悲しみを感じて言葉を失う。睡魔というけれど、それが弱い肉を襲うとき人の力ではどうすることもできない。
私も、重要な場面で突然襲う眠気を経験したことがある。なぜ、こんなに緊張する場面で眠くなるのか信じられなかった。また、深い悲しみに泣き疲れてぐっすり眠ってしまったこともあるから、イエスさまと共に祈ることが出来なかった弟子たちの悲しみが伝わってくる。

イエスさまが私たちの弱さを知っていてくださる事はなんと感謝なことだろう。目を覚ましているためには、主の助けによらないと人にはできない。
どんな時も主と共にいて、いつもみことがを聞いて,
「絶えず祈りなさい」と命じられた祈りの中にいないと、いつ睡魔に襲われるかわからないということだろう。

 ユテコを抱きかかえたパウロの言葉「まだいのちがあります。」その言葉をその場にいた人は皆信じた。そうして、彼らはふたたびみことばに戻っていった。
そのことは「もう死んでいた」ユテコを見ても、目の前での見えることに留まって、ユテコを死人のように扱って泣き叫ぶようなことはしなかったということ。見たことではなく、パウロの語るいのちを選び取り聞き続けたから、「ひとかたなぬ慰め」が残された。それは永遠の希望でもある。

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