会堂を追放された元盲人を探し出してくださったように、サマリヤの女に来てくださったように、ザアカイを見上げて呼んでくださったように・・主は心配をして来てくださる。
そんな旨みを知ってから、ないがしろにされることは絶好のチャンスと、こんどはなにを語って聞かせてくださるのだろうと期待で胸がふくらむ。だけれど、何かの間違いでほめられそうになったら、慌ててそこから逃げ出したり、混ぜっ返すようなことを言うのは、ある意味貧乏性なのかしら・・。
「サタンはたたき落とすために持ち上げる。」なんて恐ろしい言葉を聞いたことがあった。そして、ある教会で事実そんなことが起こるのを経験した。
私たちのすべてをご存知の聖霊は、人をほめることばを聞かれたとき、ご自身の真実さのゆえに私たちのうちに居場所を無くされるのかも知れないと考えてしまう。ほめられることが悪いことであるはずはないけれど、キリスト者なら、すべて、ほめる対象はその人の中に良き働きを備えて下さったイエスさまであるはず。
もしも、ほめられることがあったなら「あなたにそのように働いていて下さる主は、なんて素晴らしいお方でしょう!」と、そんな賞賛が聞けたらとてもとても安心なんだけれど・・。
もっともないがしろにされたお方はイエスさま。今も、もっともないがしろにされているみことば。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」(マルコ7:9)
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