石ころ

信仰書




 押し入れをガサガサしていたらビニルに覆われた、本らしきものにぶつかった。重い包みをなんとか引きづり出して解いたら、どれこれもハードカバーの高価な本、子育ての中で決して余裕があったわけでもないのに、主を知ることには惜しまなかったのだ・・と、ちょっとしんみりとした。

私は消化したと思った本はどんどん処分して、何時も後悔しているバカなので、仕舞ってある本があとは思わなかった。
包みを解き表紙を見ただけで、読んでいた頃のドキドキを鮮明に思い出す本もあった。信仰の成長と平安に導かれた本たち。

その中にまったく心当たりのない本があった。スリップカバーから引き出そうとしてもなかなか出てこない真っ新な本。しかし著者を見た時なぜ新しいままなのかを思い出した。
頂き物であることは定価が消されていることでわかった。だから、捨てるに捨てられず押し入れに押し込めたのだろう。
贈ってくださった方のお気持ちにどれほど感謝しても、それでも読めなかった本。

 この方の本を教会で借りて読んだ事がある。
洗礼を授けてくださった先生に「この本で躓きました」なんて話して、「そんな話しは聞いたことがありません」と言われたことを思い出した。確かに高い評価は聞いても、批判は一度も目にもしなった。
たぶんその時から「誰も躓かないのか・・、私は変わっているのかも・・」と、自分の感じたままには話さなくなった。

ノンフィクションで涙ぐましいお働きが書かれていたのだけれど、「何か変だなぁ。私の知って居るイエスさまと違う・・」と感じていた。
その本からは、日常にキリストの喜びが見えてこないから楽しく無かったのである。あえてそれは書かなかったのかもしれないけれど、それこそ教会を幾つ建てたよりも大切な証しであると私は感じていたのだろう。

 今回、その真っ新な本を先入観を置いて心も新に開いて見た。うん・・正確に書かれている。でも・・読み進む内に心にざらっとしたものが残った。
それが、かなりのウエイトを置いて書かれている、「悔い改め」に対しての違和感であることに気づいた。

悔い改めは人が頑張って心を集中してするものではない。何が良い事で何が悪いことか、それを人が頑張って心を探っても真に知ることなど無い。それほどに人は罪に無知であると思う。もし、悔い改めに至ったと思っても、それは事実の何万分の一でしかないだろう・・。
悔い改めがそんなふうなら、生きている限りその泥沼から出られない。罪は後から後から追っかけてくるだろうから・・。

 悔い改めはただ、聖霊によって心を刺される時に教わるものである。その導きは上から来るのだ。そのとき素直であればキリストの十字架に伴ってくださり、御子の血潮に洗われた深い感謝に至らせてくださるのである。
救いを頂いた者には罪の恐れはなく、いつもキリストに依る平安で覆われている。すべてを十字架で完了してくださった主は、今も「平安があなたがたにあるように」と祝福してくださっている。

 最近はほとんど信仰書は読まない。聖書のほうがドキドキワクワクするし、わからないことは主に聴くことが常になっていて、その時に目を開かれるみことばは、何度繰り返し教わっていても新鮮なのである。
内に居てくださる方に、わざわざ人を通して聞くことは失礼なこと。まあ、愛してくださる方に一回でも多く会いたいだけのことだけれど・・。


 ちなみに本としての価値を調べてみたところ、5000円以上で売られていた。
「これは真っ新、売れるよ・・もう読む気がしないから売る?」
「いや、売ることには心が痛む。」
「贈ってくださった方に?」
「いや、それはもう充分感謝して来たし、すでにどなたかも分からなくなっている。ただ、5000円も出して買われる方に心が痛む。」
「じゃぁ・・押し入れに戻す?」
「いや、もし孫が奇麗な本に引かれて読むなら、それは私的には間違ったメッセージを残すことになってしまうし・・」
開けなかったら良かった玉手箱・・と消化できない本に悩んでいる。

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