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石ころ

墓場でイエス様に出会った

 ゲラサ人の地にイエス様が来られたとき、男についている汚れた霊どもは、イエス様を「神の御子」と知っていて、恐れ、懇願して願っている。
 
汚れた霊から解放された男の噂を聞いて集まってきた人びとも、イエス様を恐れたけれど、イエス様がどなたかは、わざを見ても悟ることはなかった。彼らがイエス様を恐れたのは、自分の豚が死んだことにより、自分の財産を守りたいから恐れただけだ。

人は神を知らず、「ああしろ、こうしろ」と言う。自分にとって都合が悪いと「離れてください」という。汚れた霊どもは自分たちの方法ではなく、イエス様の方法だけが成ることを知っていたけれど、人は自分たちが何者であるのかを知ろうともしない。

もし、彼らが正気に返った人のことを喜ぶことが出来たら、イエス様を喜んだだろう。でも、彼らは自分のことだけ、この世の富、財産を守ることだけしか考えていなかった。そんな男のことなどどうでもよかった。だから、余計なことをするとイエス様を邪魔にしたのだろう。

汚れた霊どもの必死さと、人間が神様を知ろうすることの差を感じて、こんな「人」のために来てくださったイエス様、こんな「人」を神様の家族にと計画された神様の計画は、なんとある意味とんちんかんじゃないかと思ってしまう。


解放された男がお供をしたいと願ったとき、イエス様は家に帰り家族と暮らすことを命じられた。どんなに大きな奇跡を味わっても、普通に家族と暮らして、そこで、自分の知っているイエス様をありのままに語るだけで良いのだと・・・。イエス様はなにも代償を求めなさらない。私たちはいつも無条件に受けるばかり。

父の神様と御子イエス様は、その深い絆を十字架で断ち切ってまで、私たち信じる者を神の家族に加えてくださった。激しい痛みを伴った十字架の事実は、どんなに私が理解できなくても、「人」を愛しておられることの証明。

私も、墓場のようなこの世で、この世のいろんな霊にあやつられるように、ひとり冷たい心であれを求め、これを求めて、生きるために悪戦苦闘し、自分を傷つけ、家族を傷つけ、他人を傷つけてさまよっていた。

そしてある時、イエス様は私に来てくださった。イエス様はこの世のもろもろの霊から私を解き放ってくださって、落ち着いて家族と暮らすように導き、神の愛と、穏やかな家族の愛の中で暮らせるようにしてくださった。このゲラサの男のように・・・。

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