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石ころ

呼び声

 「いっこぉ」大きな声で呼ばれて驚いて目覚め、急いで階下へ降りて行って、朝の早い主人に「何?」と聞くと、主人はきょとんとして「何が?」と答えた。「呼んだから」「呼んでないよ」「そう言えば若い声やったなあ。」「なにを言うてんねん」主人はあきれていたけれど、私はそのとき、そうだあの声はイエスさまだ!と思った。

でも・・・戸惑う・・というよりは、かなりがっかりしてしまった。その呼び方は確かに私の名だったけれど、アクセントから何から、まったく主人が日常呼んでいるそのままだったから。「いっこぉ~宅急便や」「いっこ、雨が降ってきたぞ」「いっこ、あれどこにあるねん」朝から晩まで呼ばれている名。

 ちょっと変わっているかも知れないけれど、主が私の名を呼んでくださると知ってからは、どんな呼び方をなさるのかと、たぶんフルネームだろうと、どこかの受付のような呼ばれ方とか、アクセントちょっと変えたりして呼んでみて、ひそかに楽しみにしていた。けれども、まさかこんなに卑近な、たえず呼ばれ続けている呼ばれ方だとは夢思わず、かなりがっかりしてしまった。そもそもあまり好きな呼ばれ方ではなかったのだから・・。

「まあ、いいか」となるべく忘れるようにして数ヶ月。でも・・時々何だか気になる。そんな昨夜、眠れずに思いめぐらせていたら気づいた。

 サムエルが主に呼ばれた時も、サムエルは何度もエリに呼ばれたと思っている。「サムエル」という呼びかけだって、きっとアクセントも人によって幾らか違っていただろうから、その時の主の呼ばれ方が、とてもエリに似ていたのだろうと思った。いつでも呼ばれているそのままだったのだろう。だから3度もエリだと思ったのだろう。


 saltさんがよく話して居られること。「イエスさまがよみがえられて、マリヤたちに初めて声をかけられたことばは『おはよう』だった。」それはごく普通のあいさつだった。
主は、ごく普通の暮らしの中で、主人かと間違うほどにありふれた声をかけて導かれるのか・・・。

ぼんやりとテレビを見ている時も、忙しく食事の準備をしている時も、家族の普通の会話の中ででも、主は、私を呼び出し導かれるのだろうか・・。礼拝のときだけでもなく、祈っている時だけでもなく、聖書を読んでいるからでもない。

日々すべての普通の生活の中に共に居られる主。主の場所を私が分けることなんか出来ないんだ。すべてをあからさまに、すべての時を貫いておられる主を意識して主と共に生きているんだ。みことばはいつも此処で成り、従順は此処で試される。信仰は此処で実を結び。主を恐れる場所は、いつでも此処、この時、今。


「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:3)

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