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石ころ

雀の一羽さえ


命は神のもの。主の支配下にある命を、神の与えた人の自由という中で、神に最悪の決断を迫るそれが自殺。それは殺人。

「死ぬ」ことと「死にたい」事とは全然違う。死の決行は神への反抗であり、そこには自我の強さを感じる。
しかし「死にたい」ことは、弱さの中に完全に働かれる方の御手の中に居ること。

自殺は、それはとことん自分自身の問題のようでも、他人との関係が中心になっているように思う。それとも、すべて他者の評価によって生きる者が人間なのだろうか・・。それなら、生きていても何時虚しくなるかしれないだろう。


裁きは主にあり、自分自身をさえも裁かないとパウロは言う。
ペテロも大きな失敗の時、主の裁きにすべてを任せて主の近くに居続けた。

すべての責め言葉も、誉め言葉も主にあって受けるなら、自分をいたずらに責めることも、人を呪うこともないだろう。
心の脱出の道はどんな時でも、天に向けて開いてくださっている。

仮に、死ななければならないほどのことがあっても、腹をくくって最愛の人の前に裁かれる時を待っていればよい。彼は良き裁き主であり、いのちをも賜ったほどに愛して下さっているのだから。

だから、ユダは死ぬべきではなかった。ユダさえも赦すための十字架を見るべきだった。自分自身を、自分の裁きで治めることは誰であっても間違っている。

私は、死にたいという小学生の息子言葉によってイエスさまにすがりついた。それが大きな祝福のはじまり。
死にたくなると言うことは、弱さの中に完全に働く方の働きによって、新しくリッセットされて出発することができる場所なのだから、どうかイエスさまを見いだすチャンスとして欲しい。

人(自分も含めた)への絶望は救いをもたらすけれど、神への絶望は死をもたらす。だから、どんなときも神に絶望する言葉は吐かないでほしい。

自死さえも与えるほどの自由を、神と人の悲しみのためではなく、喜びのために用いて欲しい。
人を見つめているその目を、イエスさまに向けて欲しい。人の評価を聞いて居るその耳を、祝福の神のことばを聴く事に向けて欲しい。

 
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(マタイ10:29)

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コメント一覧

石ころ
電気屋さん
 聖書から教えて下さってありがとうございます。

本当に、ヨナとエリシャは神に訴えたというところが、命の分かれ目ですね。どんなときでも、どんな内容でも、それを主に持って行くなら人は生かされます。それ以上の最善はないと思います。

なぜ、死ななければならなかったのか・・いつもその疑問にぶつかります。
それはきっと、混乱の中で絶望しているからなのだと、思いを整理するチャンスがあれば生きる方法はあるのに・・と思います。
石ころ
meekさん
ご真実なコメントくださってありがとうございます

私もとても大切な人を亡くしています。私はまったく気づかなかったことに対して、(激しい腰痛を訴えられていたので、元気のないのはその所為だと思い込んで・・)取り返しの着かない嘆きと後悔と怒りを抱え、ずっと引きずっていることがあります。

だから自殺を罪だと言い切る時には、その方への思いが痛みます。親しい思い出がいっぱいあって・・痛みを持って書きました。

このような思いをする人が居なくなればと心から願います。そうして、絶望の中から主を見いだすことができたら、綺麗事のようですけれど事実すべては逆転しますね。
電気屋
確かに「死ぬ」ことと「死にたい」事とは全然違いますね。

聖書の中で自殺したのはアヒトフェルとユダ、「【主】よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と言ったのはヨナとエリシャでした。

前の二人は戦略家と金銭の責任者で、後者より才能があったようにおもえますが、後者は神の力にたより生きていく道を選び取ります。

アヒトフェルとユダも人としての王に失望するわけですが、そこから神に向かわずに自分の内側に向けてしまったようにも感じます。
自分には力も真理も誠の命もないのだと知りそこから神へと向かう、そこに本当の希望がありますね。

どんなに素晴らしい人が近くにいても形あるものはいつか取り去られる時もあるでしょうが、主をお迎えすればその方は「世の終わりまでも私は共にいる。」と約束してくださいました。

誰かに訴えることが出来た人は幸いです。
どうぞ命が守られますように願います。


meek
みんなで協力して
残されたご家族の悲嘆の大きさは想像を絶するものです。ある調査によると、そのような残されたご家族の何パーセントかは同じ最悪の選択をしてしまうそうです。

きっと、誰に責められなくても、「自分が○○を殺してしまったのだ。」という罪責感に悩まされたり、「なぜ言ってくれなかったのだろう?」「私たちがこんなに苦しむことを知っててしたのだろうか?」との思いに苦しまれることと思います。

しかし、そんな苦しみを表現されることで、また、同じ状況で苦しんでいる人の癒しのために助けになられるようです。

さらに、勇気をだして、声をあげられるならば、これから最悪の選択をしようとする人に、そうしないようにさせる力にもなられているようです。

さらに、そのような声が国にまで届き、さまざまな自殺予防の法整備にまでつながっていっています。まだまだ、不十分ではあるでしょうが。

「誰かに訴えることができたら、、、」

そうですよね。それができれば、最悪の選択から後戻りできる可能性は断然高くなりますよね。

実際、自殺をするために行動してて、死ぬ前に一回だけ教会に行ってみるかと思って、そのまま牧師にまでなった人がいますね。

みんなで協力して、少しでも最悪の選択をする人が思いとどまってくれたら、と願います。
石ころ
お祈りをありがとうございます。
息子のことは、何度か此処に書いたことがあります。
本人は何も覚えていないと言います。不思議です。
でも、私の信仰の原点です。

もう、私がどんなに頑張っても、障害どころか、命さえも守れないと絶望したからでした。
子供さんが亡くなることがありますが、やはり、誰かに訴えることができなかたのかと・・
決して親御さんを責めるつもりじゃないのですが、思っていまいます。
meek
>、死にたいという小学生の息子言葉によってイエスさまにすがりついた。それが大きな祝福のはじまり。

すれはすばらしいお証ですね。また、詳しくお聞かせください。主がどんなに素晴らしい方であるかを。

そのようなお証が用いられて、最悪の選択をする人が思いとどまってくれますようにお祈りしています。
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