ブログ「石ころ」の場合、本当に感謝なことだけど99%は愛に満ちた善意のコメントであり、私はそのコメントに育てられたり、励まされたりしている。
以前ある方に「石ころには、今までひとつの悪意のコメントもありません。」と話したことがあったけれど、話したその夜に悪意のコメント受けた。私には初めてのことでショックだったけれど、以前から息子に忠告されていたことでもあり削除して終わりにしようと思った。
でも、例え消しても汚された思いは心に残っていた。再び悪意のコメントらしきものを見つけて削除した後も、「嫌だなあ・・何かそういうものにつけ込まれるようなものが私にあったのかなぁ・・」と尾を引いていた。
しかし、それらの根のような罪は決して私と無関係ではなく、私はただ表に出さないようにしているけれど、持っている一面であると気づかされた。アダムからの罪の血筋を引く者にとって避けようもない事実。そんなものをやたらとばらまき、いやがらせをすることはないけれど、上品ぶってみてもすべてを語れるような者ではない。取り繕いの者・・。
イエス様は完全に聖い御国から、この罪に満ちた地上に下って来てくださった。すべての者の罪や汚れを負って十字架にかかり罪を購ってくださった。そして信じる者を縛りつける罪から、罪の責め苦から解き放ってくださった。
私は取り繕ってイエス様に自分のきれいなところ(実は何もないけれど少しはマシと思える状態)を見せたいし、誰にも言えないような罪の部分の真ん中にお迎えしたくはないけれど、イエス様はそこにこそ入ることを望んでおられるのではないか・・。そのために来てくださったのだから。散らかった押入にお客様を迎え入れる人は居ない。それは失礼だからでもあるけれど、何よりも自分が恥ずかしいのだけれど、最も恥ずかしい罪の中に来ていただいて「こんな者を助けてください!」と罪を告白するとき、そこから脱出させてくださるのがイエス様。
イエス様はライ病人にも御手でふれて癒された方。人の嫌う罪と汚れの中にいる人々に交わって、彼等を清めて回復を与えてくださった方。イエス様は何にふれてもそれらを清めてしまうお方であり、ご自身が汚れに染まることは絶対にないお方。罪の世にこられても罪は犯されなかったただお一人の方。
だから、主に在って汚されることはないのではないかと・・、その罪や汚れを恐れる必要などないのではないかと・・。ただ私の知っているイエス様を語っていれは、綺麗に飾る必要も自分で守る必要もなく、主はご自分のものをご自分で守ってくださる。目にしたくないものは削除する知恵を与えていてくださっている。それだけでよい。心配しないですべてをありのままにお任せしようと思った。
なによりも、助けを与えてくださるイエス様、99%の優しいコメントをくださっている方々に深く感謝をして。
「悪意のコメント」ではなくスパムだそうです。(息子曰く)
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