石ころ

ダビデとゴリアテ



Ⅰサムエル17章を読んでいて、ゴリアテの恐ろしさが詳しく書かれているなあ・・・と思った。
ダビデは、ゴリアテの前に出て行くまでに兄に厳しく叱責されている。

「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」

 よく分かるなあ・・と思った。敵と戦う前に味方であるべき人が立ちはだかる。人の世の常識という物差しで測られて、人の謙遜という物差しで責められる。このときにしっかり主に立っていないと、敵と戦う前に人をおそれて退くことになる。持っている1タラントを土に埋めてしまうことになり、主にとって役に立たない者となる。

 それを乗り越えたときに王から鎧を着せられたダビデ。今度は人の権威を着せられた。人の守りを着せられた。これらを断ることはもっと難しい。頑固でかたくなに主にだけより頼む姿勢を貫くことは簡単ではない。例え主に信頼していても、失敗の結果はすべてただひとりで負うという覚悟がないと進めない。人の責め言葉を恐れていては踏み出せない。主に在って人にそしられることは誉れのようなもの。

 それでも踏み出すことができるのは、主との日常の交わりがあったからだと思う。主に在るその力の経験が積まれていてこそできることだと・・。

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

 危急の時、即座に主のみこころを成すためには、日頃の平凡な生活の中で、いつも主を味わっている必要があると思う。ダビデの強さは、荒野でひとり主に信頼して仕事をしていたからであり、いつも主にだけより頼み、人のやりくりではないところで生きていることが確信となり力になるのではないかと思う。

 ゴリアテの恐ろしさが詳しく書かれているけれど問題はゴリアテの姿ではなく、ダビデ、私たちがどれだけ主を知っているかということだと思った。現代のゴリアテはもっと巧妙に執拗に神様を嘲笑い、クリスチャンを嗤っている。

 しかし主は侮られるようなお方ではないから、現代にもダビデを興されると思うけれど、その人はみんなに侮られるような姿だろうな・・。ダビデは紅顔の美少年なのに、戦場ではそれはさげすみとなったくらいだから。


「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」Ⅰサムエル17:47

「主よ、みこころがなりますように。御名があがめられますように。アーメン」

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