石ころ

神の所有とされた民として(Ⅰペテロ2章)

 

あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(9)


福音を伝える働きのために、神さまからキリスト者がたまわっているものは、なんと栄光に満ちて力強い備えであろう。
選ばれた種族であり、
王である祭司であり、
聖なる国民であり、
神の所有とされた民。


あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(10)


神さまからどれほどの備えがなされた者であるのか、その事実を明確に知ることが第一であり、深い憐れみによるキリストの赦しと、守りの中に在る者と知ることが初めである。
それを本当に知るなら絶えずみことばに親しみ、聖霊の導きの中に、日々のすべてのことを選択するだろう。
王は王らしく振る舞うようになり、祭司は祭司であることを絶えず意識するからである。


愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。(11~12)


すでに、神の民として天に国籍のある身は、ひたすら御国のことを待ち望んでおり、命の焦点が定まっているなら、過ぎ去ってゆく世に誘惑されることはないだろう。その儚い正体を知っているのだから。


みことばの約束が、どれほど確かな栄光に富んだものであるのか、約束された方がどれほど御真実な方であるかを知るなら、その望みや喜びが魂に充満しているなら、日々のキリストとの交わりの中に在って、世の何を見ても何を聞いても誘惑とはならず、心は静かに主の時を待つだろう。


それは世の知らない平安なので、同じように振る舞わない事に怒りを覚えていても、世は彼らの姿に渇きを覚えていて、主の日には神をほめたたえるようになるのだ。キリスト者の立派な行いとは、うちに居られるキリストの現れである。


人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。(13~14)


人の制度に従うのは「主のゆえ」である。それがみこころに叶うことだからである。そうして、その日々は私たちに平和をもたらせて、世に在っても交わりの楽しみや、時に助けを受けることができるからである。
そのような平和な交わりが無ければ、どうして福音を伝えることができるだろう。


善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。(15)


キリスト者の善は私たちが主に在ることである。キリストから出るすべての良きものを持って世に居ることであり、無知の口を封じる知恵は主から出て来るからである。


あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。(16)


世から救われた者は、平和の中で世に従う自由も仕える自由も持っている。また、世を否んでみことばに留まる自由も持っており、キリストに在って世に出入りし、世で共に生きる交わりの中では、一緒に泣いたり笑ったりする者である。


しかし、私たちは第一に神の奴隷ゆえに、いつでもそれらのすべてを差し出して、みことばを語りみこころを優先することができるのだ。


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