石ころ

「赦し」




イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ18:22)

「赦せない」と言うことは主への叛逆である。
しかし、主の祈りでは私たちが無条件の赦しを求め、次に私たちも赦しますと教えられた。
それは、私たちがどの様な者であるかをご存じで、私たちの秤で私たちを計ることをされず、恵みによる赦しが準備されているからである。
主は御真実だから出来ないことを条件にはされない。

あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。(ヘブル12:4)

「頼りない人の心を知っているのに、完全な赦しの約束など出来ない。」と言う・・それはとてももっともらしい言い分だけれど、主へのいきなりの拒絶である。
直ちに「アーメン」と言えないのは、主を見ず、自分を見るからである。主が命じられる時、そのための準備をしていてくださらないことがあろうか・・。

私たちの告白を事実にしてくださるのは主の真実であり主の信仰であって、私たちの真実ではない。私たちの成すことは不信仰と戦うことである。主の軍団が付いていてくださるのだから、直ちに自分を捨てて信頼によって「アーメン」と言うべきである。
そのときに、人は聖霊の働きを妨げるものから解放されるのである。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ローマ5:20)

赦せない思いが襲う度に、「赦しました」と10回も、50回も、100回も告白すればよい。すべてが御前への捧げ物となるからである。
心にとぐろを巻く憎しみも、赦す祈りによってすべては神様への捧げ物となり、すべての虐めや圧迫も赦しの祈りによって香ばしい捧げ物となる。

だから、イエスさまは7の70倍までも・・つまり無限に赦せと命じられる。その時、御父と御子と聖霊の交わりに入れられ、その甘さを味わい清められ永遠への祝福となるからである。
イエスさまが十字架で祈られた祈りによって、すべての赦しは備えられた。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(ルカ23:34)

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