私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(Ⅱコリント5:1~3)
地上では悩みが尽きることはなく、弱さを持ったこの土の器は、大切な人がいつも命の危険にさらされている。
また、魂にある感情を完全に支配することはとても難しく、逆に感情に支配されることは誰であっても簡単である。それは、サタンの使いの蛇がエバを誘惑した所である。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。(Ⅱコリント5:5~6)
キリスト者はイエスさまの一方的な恵みによって、天に永遠の住まいを頂いている。聖霊は朝毎に聴く者に、みことばの約束を指し示してくださる。
そのような恵みの約束の中に在っても、肉体の死は圧倒的な脅しの力を持ってもいる。
どんなに一緒に居ることを願っても、死による別離は容赦なくやってくる。それは、永遠の救いを備えてくださった、イエスさまが涙を流されたほどのことである。
キリスト者であっても、遺された者の喪失感は深く傷を受ける。ただその絶望には、みことばの約束による再会の望みも並立していて、一時の別れであり時間差に過ぎないことを、落ち着いて受け入れるとき癒されて行くのだ。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(Ⅱコリント5:7~9)
世では求めても求めても知り尽くし得ない主に、御国で顔を顔を合わせて見(まみ)え、心に溜まっている目の涙は拭い去られる。
沢山の「なぜ」を持っている者は、沢山の時をお側にいて御声を聞くことができるだろう。
霊においてはキリスト者は聖霊の器として、いつもうちに居てくださる三位一体の神を知っており、みことばの約束を聞き続けて平安を持っているけれど、確かに私たちは、今「主よ。来てください」と言ううめきをも抱えて生きている。