聖書には良い行いを勧める多くの箇所がある。
もし、何も出来ないことに比べればまだマシであると読み、また、あんな酷い人に比べればマシだと読み、昨日より今日はマシになっていると読むならば罠に嵌る。
その聖書箇所によって、絶望することがなければ罠に嵌ったままで一生終わる。その人の信仰は一歩も進まない。聖書はそのように出来ているから・・。
しかし、絶望の底から主に救いを求め、信頼して飛び込むなら、イエスさまは十字架の血に染まった御手で受け止めてくださる。
それが誰であろうとも・・。イエスさまの十字架の救いは、人の罪の嵩を遙かに超えて、無限であるから・・
その救いの大きさは、心貧しく何も持たずに主に身を寄せた者だけが知ることができる。
その人はイエスさまの養いによって育てられ成長する。人本来の力がそれに手を貸すことはなく、人の知恵がそれを悟ることもない。
聖書は人には出来ないことが書いてある。それは、自信と傲慢の終点であるゲヘナから脱出させるためのものである。
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)
イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
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