まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。(11~12)
キリストに拠って救われた者のうちには三位一体の神がおられる。まことにこれこそ驚天動地の奇跡である。聖なる神が未だ肉を纏っている人のうちに住んでおられるとは!
このことはキリストの十字架が、信じる者にとってどれほどに力ある御わざであるかを現わしている。過去、現在、未来の罪が神の御前に完全に贖われている証である。
残念なのは人が罪に対して鈍感であるように、聖に対しても鈍感ゆえに、自分の中に起っている奇跡に気づかないことである。みことばから知ることがないと感謝も感動もなく、交わりも信頼も不確かなものとなる。
ただ、みことばに信頼することで、近しくいてくださる主を誰でも知ることが出来る。聖霊によって確信を与えられるみことばに聴いて、キリストに安息し安らかにお交わりを楽しみ、勇気をたまわって大胆にみこころを行うことが出来る。
その時不足を満たすために聴き回る必要はなく、完全な備えの中で何に欠けることもなく、うちに居られる良き方の満たされるままに、満ちて溢れるみことばを真っ先に味わいつつ流して行くようになる。
神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちいとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(1ヨハネ3:24)
霊のうちに居られる方は祈る前から心の奥まで知っておられる。絶え間なく移ろう心の不確かさも、愚かな勘違いも、怒りも妬みも嘆きも、喜びや願いをも求める先からすべて知られている。
人の魂の揺らぎが赦されているのは、キリストの血に拠るきよめの故である。此処に嘘や隠し事によって、神の前に取り繕う必要のない平安がある。それゆえサタンが入り込む隙も無いのだ。
また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。
まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(13~14)
この事実はみことばに約束されていることであり、そのまま真っ直ぐに受け取るなら、神のご真実によって誰でも地でみこころを行う力となる。
見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。(15)
死が災いとなるのはみことばを否定するからである。願わないことが起った時もそれが災いとなるか、祝福となるかは、主をどのような方と知るかに拠る。「あなたの信仰のようになる」からである。キリストを信じる者には死は永遠の祝福である。
災いとみえることが数年後、数十年後に祝福の備えであったと知ることがあり、むしろ驕り高ぶりからの守りであったと感謝に変わることもある。此処に必要なのは良い時も悪い時も、主に信頼する愛の交わりと聖霊に導かれるみことばの確信である。
もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら、あなたは生きて数を増やし、あなたの神、主は、あなたが入って行って所有しようとしている地で、あなたを祝福される。(16)
ゴールから目を離さないなら、不信仰ゆえに不意の出来事に躓くことがあっても、真っ逆さまに倒れることはない。
主の命令と定めと掟を守ることは、キリストのくびきを負うことで全うできる。主と一緒に歩いているなら罪から守られ道々ご自身を解き明かして、天に在る望みに満たし続けてくださるから。
しかし、もしあなたが心を背け、聞き従わず、誘惑されてほかの神々を拝み、これに仕えるなら、
今日、私はあなたがたに宣言する。あなたがたは必ず滅び失せる。あなたがヨルダン川を渡り、入って行って所有しようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くことはない。(17~18)
なぜ神の祝福を離れて滅びるのか、何を見ているのか。世に在る日々の出来事にがんじがらめになって人の善悪に振り回され、残り少ない時を持ち去られてはならない。
目をあげて永遠のゴールを見るなら、それらの事柄は世の移ろいの中に過ぎ去る塵芥であることが分かる。
私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。(19~20)
この世はキリストに出会って救いを得るための旅程であり、肉にある命はそのための消耗品である。どれほど命を惜しんでも時が止まることは無く、この命を最大限有効に用いる目的はただ一つ永遠のいのちをたまわることである。
それは自分の幸いのためだけではなく、「あなたもあなたの子孫も生きる」ことなのである。限られた命のある間に・・確かに時は迫っている。いのちの与え主なるキリストに遜るなら、生まれて来た命を全うして永遠をたまわり神の喜びとなる。
イエスのもとで目覚めていよう そうすれば私たちの罪は眠りにつく マタイ受難曲より