マグダラのマリヤは暗い内から墓にやってきました。きっとひと晩中まんじりともせず朝を待っていたのでしょう。
ペテロたちが帰ってもマリヤは墓に留まって泣いていました。主を求めて御声を聞くまで其処に留まることは、主への執着であると思います。
クリスチャンが唯一執着するのは、イエスさまにお会いすること、御声を聞くことであると思います。
私たちは御声を聞かずに信じることはできません。イエスさまは「見ずに信じる者は幸いだ」と教えられましたが、みことばを聞くことによってのみ、見ずに信じることが可能です。
なぜなら、みことばを聞いて従って行くときに、霊の目には主が見えてくるからです。人は、みことばを生きる時主を見つけます。
イエスさまはマリヤの後ろから声をかけられました。振り向いてお姿を見てもそれが主とは分からなかったのです。見ることによって信じることができず、聞き慣れたことばで名前を呼ばれたときに、はっきりとイエスさまを知ることができました。
良いときも悪いときも、絶望の十字架の側ででも、主と居て御声を聞いていないと、大切なときに呼んで下さっても、それが主の御声だとわからないのです。主との間に、聞き慣れたことばの関係があることが大切です。
主の語りかけは、ひとり一人にそれぞれ違うと思います。何時も誰か人を通して教えてもらうだけでは、いつまで経っても主の御声を覚えることはできません。
恐れず聖霊の導きによって、ひとり聖書を読むことは大切だと思います。
いつもイエスさまの御声は細い声です。何かに夢中になっていては気が付かないほどの・・。静まらないと聞こえないような声だからです。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)
地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。(Ⅰ列王記19:12)
イエスさまは「すがりついていてはいけません」とおっしゃいました。
私は自分の成すべき事を避けて、ただ主にすがりついて過ごしたい方です。勇気がなくて臆病だからです。
でも、「行って、わたしを伝えなさい」と言われます。主が必要を満たしていて下さいますから、自分の足で歩いて自分で聴いたことを伝えるべきなのです。
「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
聖霊のバプテスマはこの後、イエスさまが天に帰られてからのことなのですが、平安を得るために、また、遣わされた働きのために、イエスさまが聖霊の息を吹き込んでくださいました。
みことばのための必要は、ご真実な主がすべて備えて下さいます。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
みことばを深く感謝いたします。イエスさまが神の御子であることを信じます。イエスの御名によって永遠のいのちを得させて頂いたことを、深く感謝いたします。アーメン
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