ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕(ルカ24:11~12)
イエスさまの墓が空であり、よみがえられたことを聞いても動かない弟子たちの中で、ペテロが走り出したのは、イエスさまとの個人的な関係に拠ることである。
人を恐れてイエスさまを「知らない」と否んだ時、御目に見つめられて涙を流した関係によることである。溺れそうになって、水から引き上げられた御手の繋がりに拠ることである。
クレオパたち二人の弟子がてエルサレムを去って行く途中で、イエスさまは彼らに来てくださった。彼らにはイエスさまとわからなかった。
イエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24:25~27)
復活のイエスさまが、愚かで、不信仰で、心の鈍い者に来てご自身を教えてくださったのだ。それも聖書全体から解き明かす個人授業をしてくださったのである。
彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24:29~31)
彼らが、無理にイエスさまを引き留めて聴き続けようとしたのは、心が燃えていたからである。イエスさまが語ってくださるみことばは心を熱くして、塩水のように渇きをもたらせる。もっと、もっと聞いていたい。はっきりわかるまで、よく見えるまで離れてはならないのだ。内に充満するまで・・。
そうして、彼らはすぐにエルサレムの弟子たちの所に戻った。みことばが分かると自分の居場所がわかるようになる。
イエスさまは弟子たちの所にも来てくださった。
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。(ルカ24:45~48)
ひとり一人が主の導きを受けて、みことばの充満によるキリストの体として召し出される。主を礼拝する教会の働きに召されるとき、それぞれが主に聴いたことばを持っていて、喜びが語り尽くせいないほどにあふれる場所となるだろう。
だから、一度此処に来た人は、その豊かさと平和から離れられなくなるだろう。
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。(ルカ24:50~53)
みな自分を忘れて「私の主。私の神。」と、いつでも親しく主をほめたたえることが出来る。絶えることのない礼拝ができる。これこそキリスト者の特権である。
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