石ころ

キリストに信頼した者は永遠に失望させられない(Ⅰペテロ2章)

 

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。(6~8)

 

救いの家のために神が準備してくださった礎石イエス・キリストを、人が無視することが出来ないのは神の憐みに拠ることである。それはことさらに逆らって捨てるか、謙ってひれ伏すかしかないのだ。

 

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)

 

人がキリストを選び取る時に、悪霊は心を支配して、脅したりおだてたりして自分たちの奴隷を手放すまいとする。
悪霊に打ち勝ってキリストを選び取りみことばにひれ伏し礼拝する時、心を清める聖霊がピッタリと寄り添ってすべての悪いものから守ってくださる。みことばを信じた者には神の権威が与えられているからである。

 

確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。(ルカ10:19)

 

神に成ろうとして堕落した天使サタンは自らの滅びを知っており、人間が何度も神のように振舞っていながら、ただキリストの福音に拠り神の子とされる事実は、激しい妬みとなり憎しみとなって自分たちの滅びに引き込もうと必死なのである。

 

それは彼を罰した神が愛する者を奪って、神に復讐することになるからである。しかし、滅びる人々はその定めにあると書いてあることは、滅びる人が必ずしもサタンの思うままに出来るのではないのだろう。

 

福音に接する機会があるということは神の選びに拠ることであり、聖霊に触れられていることでもある。ことさらに反発することは、永遠の滅びと永遠のいのちを賭けたサタンの戦いの中にあるのかもしれない。
私は、キリストに拠る勝利を祈り続けて書いているのである。

 

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。(9~10)

 

神の民の受ける栄誉はすべて人が何をしたということではなく、ただイエス・キリストが完成してくださったみことばに「アーメン」と心を開いてたまわる恵みである。それは誰に対してではなく、ただひとり神に向かって同意するのである。

 

キリスト信仰の守りは、うちに来てくださったキリストから流れて来る力にあり、聖霊の導きによるみことばが、永遠に続く平安の中に誘ってくださるのである。
私たちが神の備えに応答したとき、神は御子によって準備してくださった義の衣を着せ、愛の神の食卓に席を設けてくださる。

 

私たちはキリストを信じて生きる中でも、聖霊の導きに聴き間違いや思い込みなど失敗や間違いだらけの者であるが、キリストのご真実によってみことばの約束を成就してくださる。みことばを信じた瞬間にそれは完成しており、此処にキリスト者の御国に至る平安がある。

 

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事