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石ころ

信仰③

 アブラハムがイサクを捧げる決心をしたとき、アブラハムはイサクを焼くための薪とイサクを殺すための刀を持って山に登った。その準備を始めたときに、アブラハムの思いの中ではすでにイサクを殺し、全焼の生け贄としていたのだと思う。そうでなければそんな準備はできないから。

「神ご自身が全焼の生け贄を備えてくださる。」という告白は、「だから何も心配はいらないと信じる。」ということではなくて、「最善の主、真実なお方の方法に、完全にお委ねしていれば良いのだよ。」ということだと思う。事実、彼はイサクに刃物を振り下ろそうとした。

 主の方法に従順するには、私にだって死の経験が必要。それは自分で選び取るので自殺のようなもの。十字架の恥と嘲りと損失の覚悟が、たとえどんなに小さな事柄であっても必要になる。だって、そんな選びは世の人にはただの馬鹿にしか見えないことだから・・。

そのようにして捧げ、「後のことはどうぞよろしく」と主の最善にすべての望を託すことが、「主の山の上には備えがある」の信仰だと思う。
 
 アベルの捧げものは、初子のそれも最良のものだった。どれほどにか愛着があっただろう・・それも「最良」は唯一でふたつとはないもの。アベルにとってはかけがえのない大切な子羊。大切なものだから主が求められるのだ。かけがえのないものだからこそ主に捧げる価値がある。

イサクも子羊も主ご自身が備えてくださったもの。そうして、ひとり子イエスさまを・・。


「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。」(コロサイ1:22~23)

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コメント一覧

石ころ
コメント感謝します
本当にお久しぶりです。
いちごさんの体調が良いようで、イエスさまに感謝ですね。

実は、私は重荷のすべてをイエスさまに負っていただいている者でした。
恥も嘲りも失敗も主がすべて負っていてくださいました。

だから本当は何も恐れなくても良かったのです。
もし、ささやかな苦しみや悲しみを知ったのならハレルヤです。
わずかでも、主のくびきを共におわせていただいたのですから!
でも、でも、主は私たちにどこまでも甘いお方です。
イチゴ
ハレルヤ!お久しぶりです
「最良は唯一で ふたつとないもの」
アーメンです

従うために捧げるまで
人にとっては悲しく辛く苦しく それは当たり前
それでも 主よ と従順を示した時
神がくださったものの素晴らしさ

キリストでさえ苦しんだ
アブラハムでさえ苦しんだ
まして私なら苦しいと弱音だらけなのも当たり前 と単純に考えて
感謝の日々です 
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