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石ころ

体と霊

 今朝、頭を枕から上げたとたん激しいめまいに襲われた。最近出なかったのだけれど、困ったなぁとゆっくり、そおっと起きあがり、酔っぱらいのようにふらつきながら慎重に階段を下りて、息子の朝食だけ準備をして再び床に入る。

10時頃に目覚めるとかなり落ち着いたので、近くの医院で薬をもらって飲む。それでもまだまだ体調は頼りない。でも、こうなるとかえってあきらめも付く。
実は、先週からしつこい蕁麻疹や、足の指の痛みなどで自分の思うようには動けないでいる。お医者さんいわく、「これらはストレスや過労」それは違うだろうと納得できない。

私は最もストレスの少ない立場であり、過労とも縁がないはず・・。
でも、これでもストレスだと言えば、ストレスのない状態になるためには死ぬよりほかなく、ということは放っておくよりしかたがない。時がくればなおるだろう・・私の体はそういうものなのだと、ちょっと不自由な時があるけれど、対処療法があるのだからそれで良いと思うことにした。

 動けなくなると静まることになる。そこで今日は、先日から読み返したいと思っていた「キリスト者の標準」を読む時間ができて、とても恵まれた時を過ごすことができた。
 
 
「ヨハネの第一の手紙『御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめるのである』
この罪とは包括的な『あらゆる罪』ではなく、犯した『一つ一つの罪』を指しています。ここに、目を見はるべきことがらが隠されています。神は光の中におられるので、私たちが神と共に光の中を歩めば、すべてのものが光に照らし出されます。したがって、神はすべてのものをごらんなることができます。しかも、その血は、そのすべての罪からきよめることができるのです。」とあった。

 神の光の中で、その360度の光の中で、私の罪はすべて隠れることなくさらけ出されており、明確な罪も、罪の意識さえないものもその一つ一つを、イエスさまが十字架で流された血潮によって、きっちりと罪の対価が支払われていること、あがなわれているのだということに改めて思いが至った。
そうして、その事はこれからも絶えることなく、御国に行くまで繰り返されてゆくのだと思い、改めて深い感謝の時を主の御前に持つことができた。

 
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」(ヘブル10:19)

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コメント一覧

石ころ
ありがとうございます
今朝は大丈夫でした。
祈られていることは、何より嬉しいことです。

古びることもない、完全な、霊の体ってどんなものなのでしょう・・
想像力の乏しい私には思い浮かべることもできません。
でも、考えることは私には楽しいことです。

血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)
愛知県のさっちゃん
お祈りしています。
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