石ころ

裂かれた心と幕 (マルコ15章)




そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。(マルコ15:29~31)


 自分を救えないイエス様、それは人には本当に愚かなことだ。十字架に付けるような者のために、天の栄光を捨てて罪人となるとは・・。
人は自分を救う者を誉め、「天は自らを助ける者を助く」この格言が大好きだ。また、自分を支配する者を崇め仕える者を軽んじる。
正に、イエス様は真逆のお方であった。

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:33~34)

イエス様は、十字架で人の罪のすべてを負ってくださった。いったいそれはどれほど恐ろしいものであろう。罪を経験したことのないイエス様の恐怖はいかばかりであっただろう・・。
罪を負った者は罪人である。神様は罪を見過ごしに出来ないお方ゆえに、罪人となった御子を見捨てられた。心臓が裂けるほどの恐怖は御父との断絶。

しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:37~38)

イエス様の御身が裂けたとき、人と神を隔てていた至聖所の幕も天から地に裂かれた。
今、私たちは何時でも主の内に在って、御父と御子と聖霊によるお交わりが赦されている。いや、歓迎されている。イエス様がそのために御身を裂いて備えてくとださった場所であるから・・。

 女たちは終始イエス様を見つめていた。お苦しみも葬りも目を反らさずじっと見ていた。
女は弱い者だからそこに居続けることができた。弱いからイエス様から目を離せない。弱いから守られ、そのことを知って居るから味わう深みがある。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)新改訳

アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。(マルコ15:43)

彼は復活を信じていたから勇敢であった。もし、キリストの死に復活がないなら誰がこのような危険を冒すだろう・・。
信仰によって勇気を得た人々によって福音は世界に伝えられ、今私たちもその恵みに預かっている。


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)新改訳

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