石ころ

日曜日にはイエス様のお話を聞く 12.17


「わたしを覚えて」
巷には、イエス様抜きのクリスマスがあふれている。それは昔も同じことで、エルサレムの神殿でも、神の家は商売の家、強盗の巣だった。
イエス様への純粋な思いを妨害するものに対しては、優しさや寛容ではなく、鞭であり、余計なものは追い出さなければいけない。イエス様が宮から出て行かれたら、宮は崩壊するしかない。

イエス様に捧げる捧げものは良いものではなく、何も残さずすべてである。
一日に三度の食事が必要なように、私たちの体を作られた主は、その本質の十字架を、そのいのちの犠牲を、一日に三度は覚えるためにそのように造られた。正餐式が無ければ食事は単なる燃料補給にすぎない。

天から降ったマナを思う時、肉を養う食事と霊を養うみことばのバランスが大切。食事には、買い物から食べるまで、多くの時間を用いておいしく食べる。みことばがなぜ味気ないのか、それは何の準備もなく、泥付きの大根を食べるからである。みことばをしっかり読んで、丹念に準備された良いメッセージはおいしい。それは聖霊が居られるから自分ででも出来る事である。

食べることにはあらゆる事が含まれている。生きることはキリストである。普段の生活に置いて、私たちがどのような態度で過ごすのか、何時も主を覚えているか、自分で吟味することが大切である。 (メッセージ要旨)


私は、今週のメッセージから主に鞭を頂いた。

まず、体に余計な肉をたっぷり付けている私に、食生活とみことばとのバランスにおいて問われた。確かに、食事のために多くの時間を掛けている。それは主婦として良いことであると思いこんでおり、みことばに費やす時間とを比べることなど思いもしなかった。そうでなくても、時間を本当にどれほど浪費しているかと・・。テレビに、新聞に、ゲームに、パズルに、ぼんやり・・に。

時間の用い方は、私が何にウエイトを置いて生きるかということ、本当に余計なものを追い出して、この聖霊の宮を清めて頂いて、何も残さずに主に捧げることを望まないと、妥協をして強盗の巣にされるがままであっては、崩壊してしまうだろう。このような危機感は確かに予感していたので、今日のメッセージは身に浸みた。


あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ローマ12:1.2

あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 Ⅰコリント10:31 

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 Ⅰコリント6:19.20

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