神さまがアダムを創造された時、人は完全な平和を持っていました。それは神様との平和と人の平和です。
しかし禁じられた「善悪を知る知識の木の実」を食べた時から、自分の基準による善悪を持つようになりました。
神様がそれを許されないのは造り主の基準ではなく、人は互いに自己を中心とした善悪によって訴え合うようになるからです。そうして、造り主である神様をも裁くまでになりました。
すべての争いはそこから出ています。誰もが正しいと思うことによって戦うのです。それは神様の基準に頼ることを捨てた結果です。
創造主なる神様は人をご自分のかたちに造られ、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われました。
しかし、人は創造主である神との平和に安息しませんでした。
神様は、罪によって互いに傷つけ合って滅び行く人を救うために、愛するひとり子の神を世に下し、十字架刑による死をもって罪をあがない救うことを計画してくださったのです。
神様に叛逆し続ける罪を処理することなしに、人が平和を得ることはできないからです。
イエスさまが十字架にかかられたとき群衆は「十字架から降りてこい。そうしたら信じるから」と叫びました。
しかし、罪の無い方が十字架で罪を負って死ぬことだけが、人を罪から解放する方法だったのです。罪のない人だけが他人の罪を負うことができます。罪人が死刑になっても、それは自分の罪のための死でしかないからです。
まったく罪が無い方はイエスさまだけです。人はアダム以来の罪を持っているからです。
どんな罪でも死刑によって処理できない罪はないので、イエスさまの十字架によって人類の罪の代価はすべて支払われました。
このことを信じる人は、エデンの園で創造された時の神様との平和が回復されるのです。
もしイエスさまが十字架から下りたら、人はどんな善行を持っても神様との平和を回復することはできません。
絶対の義であり聖である神様は、どんなに小さな罪の汚れとも一緒に居ることはできないからです。
今も、人は十字架を無視して神の愛を証明しろと叫びます。私はそのことに悲しみと怒りを覚えます。しかしそれによって戦うなら、それは聖書に書かれている言葉に反することです。それは神様の意志に背くことです。
ひとり子をたまわるほどの愛の神様は、「敵のために祈れ」と命じられ、敵をも愛することを命じられるからです。
キリストによって救われた者なら、みことばには自分の感情を打ちたたいても従わせます。それは自分自身も罪によって神の敵であったのに、御子の十字架で救われた者だからです。みことばに従わない者は神様とは無関係です。
この世では、聖書を掲げて宗教を作ることも戦争をすることもできます。それは人の善悪に拠る主義主張です。その罪から救い出すために十字架が用意されました。
神様との平和を持つ者は聖書の言葉を利用するのではなく服従します。その時互いに殺し合ったり訴え合ったりすることはできなくなります。
人を篩うのは御子イエスの十字架です。
善悪の知識の木の実を食べて以来、人はそれぞれの善悪によって生きる者となりました。その人は神の介入である十字架を無視します。そこでは創造主の基準によって、善も悪もその出所が暴かれるからです。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちときよめます」
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ムベ
のしてんてん
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