石ころ

歩み


今週の日曜日は、ご近所のお付き合いをした。今までは何時も主人だけで行ってくれていた総会と親睦会。時間的に間に合わないので礼拝に出られない。ずいぶん迷っての決断だったけれど、みことばもあっての選択だった。当番のお宅の奥さんが風邪でダウンして居られて、お手伝いのタイミングはイエス様が備えてくださっていた。

信仰に入って、それまでのご近所付き合いを一変した。日曜日のお付き合いを止めて礼拝を守った。みんなで飲んで楽しむ席も、集まってうわさ話に興じる主婦からも、身を避ける様になった。あからさまに嫌みを言われたこともあったけれど動じなかった。

イエス様によって救われ、生まれ変わったことを、とにかく明確にしたかった。今まで拝んでいたものを、きれいさっぱりと身の回りから取り払い、すべての価値観ががらりと変わったことを、誰が見ても分かるようにはっきりしたくて、不器用だけど一生懸命だった。

神社のお付き合いや、お地蔵さんの当番もはっきりと断った。このことで私の上に何が起こるかを見てください。もし、あなたがたの神々が本物なら、彼らを無視した私には罰が当たるでしょう。でも、私の家族がこれから祝福される時、イエス様からのものであることを認めなさい。とそんな気持ちだった。

私自身失敗もするし、また、家族の弱さや恥もあるけれど、ありのままに信仰によって生きる時、私達を用いる方は、私達よりも私達をよくご存じなのだからと、クリスチャン人生の責任を、すべてイエス様に取って頂くことにした。主は、私たちを導くムチも杖もお持ちだからと。

私は、クリスチャンのひとりとして、隣人の前でイエス様に在る人生を、主の憐れみによって守られ生きてきたけれど、しかし近年、私は煩わしい世を避けて、ひとりクリスチャン生活を楽しんでいるのではないかと思え、それは、イエス様の生き方とは違うのではないかと、イエス様は世を愛されて、何時も彼らの近くに居られたではないか。イエス様は、片時も彼らを高みの見物などされたことはなかったと、心に迫る様になった。

この世のことはこの世の人々の方がずっと賢い、私は特にこの世のことには鈍くさい。魂から出た良い行いなどで勝負できるはずもない。しかし、私には愛によって働くような愛もない。私には、例え集会の席に座っているだけでも、祈りによって備えなければ居られない弱さがある。歩くにも話すにも主の助けが必要である。

だから、いつもイエス様と居ることが出来る。だから、何処にでも出ていける。どんなことでも出来る。イエス様の愛深さを頂くことも出来るはずであると、自分自身に言い聞かせて、この年イエス様の御足跡を一歩踏みたい。


また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。Ⅱコリント6:8.9.10

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