石ころ

強い酒(申命記14章)

 

あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。(22b)

乳は母の血であり血は命である。母の乳は子を生かすための命であることを思い出す。

 

あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。
主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。(22~23)

 

労働の実から十分の一を捧げるのは、捧げものを主に持って行って、家族と共に収穫を守ってくださった主の恵みに感謝をして、神の食卓を喜び楽しむ姿を主に見て頂くのである。
主を恐れるとは罰を恐がることではなく、一方的な恵みと祝福を、故無くたまわっている神の好意に対する恐れである。

 

あなたはそれを金に換え、その金を包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行きなさい。
あなたは、そこでその金を、すべてあなたの欲するもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたが望むものに換えなさい。そしてあなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜び楽しみなさい。(25~26)

 

命じられた所まで遠い時は金を持って行き、「あなたの望むものと換え」とある。主は犠牲を求めておられるのではなく、たまわった収穫の十分の一によって家族の望みを叶えてくださる。その感謝にあふれて神を喜び楽しむのである。

 

強い酒を此処では楽しむことが許されているのは、此処は神の御前だからである。神の光の中は後ろめたさや負い目のない場所であり、欲するままであって良いのだ。

 

しかし、主が信仰者のうちに臨在しれおられる今は、それらが罰せられようと罰せられなかろうと、酔っぱらって気分を誤魔化したり、酔いによって一時的な逃げ場所を求める必要は無くなったのだ。

 

永遠の御約束に在って生きる者は、苦難も聖霊によって生きて働くみことばを経験するときであり、力を得て勝利の体験をたまわる時である。病も死も主に見える希望があり、内なるキリストの平安を奪うものは何も無いのである。

 

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

 

人生には色々な時があり、騙しごとの絶望や巧妙な誘惑は絶えることがないが、放蕩の材料は、神の御前に差し出して捧げものとすることが出来るのだ。

聖霊は遥かに力強いみことばの望みに満たして世の楽しみを忘れさせ、自分で戦っても得なかった勝利を、勝ち取らせてくださるのである。それは不自由ではなく完全な解放である。

 

酒が悪なのは、神と共に家族で楽しむものとはならず、御愛に満ち足りることを知らずに、魂が永遠のいのちの望みを離れて世に彷徨い出る行為だからである。
主に守られる健全さの中でこそ、聖霊は自由に働いてみことばを指し示してみこころに導かれ、キリスト者は永遠のいのちに堅く留まるのである。


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