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石ころ

用いよ



そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 (マルコ3:14~15)

勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
また、彼に明けの明星を与えよう。(黙示2:26~28)


弟子に悪霊を追い出す権威を与えると約束されている。人の中に巣くった悪霊は、主を礼拝する妨げだからであろう・・
造り主を礼拝するために人は造られたのだけれど、罪によって至聖所での礼拝から遠ざけられてしまった人々に、その近しい礼拝に導き入れるためにイエスさまは来られたのだから。

アダム以来、神に反抗する罪の血筋にある人間には、追い出さなければ真の神を礼拝出来ないものが沢山に巣くっているのだと思う。
だから宣教に先立って、イエスさまが弟子に与えなければならなかった権威なのだろう。


まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)

みことばは信じる者に多くの約束をしているけれど、それらは人には見たことも聞いたこともないことであり、信じ受け入れるには躊躇してしまうことが多い。
しかし、すべて主が備えて与えてくださるものは必要だから備えられたのだから、信仰を持って受け取り、それを用いることから逃げてはいけないのだと思う。
御名があがめられるために。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)

しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示21:8)

臆病と慎みが対極にある。今まで、臆病がこれほどの罪であるとは意識していなかった。臆病が自分自身を守ろうとする思いから出ていることは事実である。

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