石ころ

ペテロの涙(マルコ14章)

 

彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。
ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。(53~54)

 

弟子たちがみな逃げてしまっても、ペテロは遠くから付いて来た。しかし、彼はイエスに仇なす役人に紛れ込む方法を選んだ。イエスの弟子として立っておれば、神は彼を覆って守ってくださったものを・・。
私たちが世で失敗するときは、主により頼まずに姑息な手段に頼る時である。イエスさまはそれさえもご存じで、ペテロに祈り備えてくださったのであるが・・。

 

さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。(55)
そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」(60)

 

信仰のことで責められる時は、主に委ねて黙っておればよい。みことばを語るチャンスをくださるからそれまで待てばよい。自分のためには何も言わなくても良い。人は信じたいように信じる者であり、真実を追求しているわけではないのだ。

 

しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」(61~62)

 

イエスさまはご自身を神のキリストと、はっきりと示してご計画を語られた。大祭司には、真実を聞いた上でキリストを否定し、キリストの再臨を信じなかった罪が残った。再臨のとき栄光の主を嘆いて見るのだ。

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示録 1:7)

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。
あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。(63~64)

 

もし、神を冒涜する者があれば神が裁かれる。それを裁くのは人ではない。神に成り代わって裁くというのは、神の座に自分を置いていることである。そんなことをするのは、そもそも神を恐れていないからであり、神が生きておられることを信じていないからである。

 

そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。(65)

 

神を冒涜しているという者が、神の遣われた救い主を罪に定め、嘲り、なぶりものにして痛めつけた。
しかし、イエスさまは彼らを呪わず、その無知を十字架でとりなして祈られた。彼らはそれがどういうことか知らないのだと・・。

 

ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。(66~68)

 

あざむくことは敵の方がはるかに敏い。キリスト者には絶対に勝ち目はない。主に身を避けてすべてをお委ねするより他に、世に不器用なキリスト者には勝利はない。キリスト者を守るのは如何なる時もキリストである。

 

すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。(69~71)

 

あざむきと取り繕いには嘘を強要される。言いたくない嘘を言って、愛する方をあざむくように追い詰められて行く。このパターンは何時の時代も同じである。

 

するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(72)

 

みことばを思い出して泣く涙はどんな時でも甘い。たとえ後悔のあまり慟哭していても、みことばを思い出すときは、イエスさまが備えてくださった避け所に居るからである。

 

 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10)


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