石ころ

十字架 ③(マルコ15章)

 

イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。(39)

 

ご自分のために戦うことをせず、殺す者を呪わず、執り成しを祈られる、十字架のキリストを彼は見ていた。太陽は悲しみで喪に服すように暗くなり、罪なきキリストの死を見守る天の現れを見ていた。

 

罪人の様とは、あまりにも違うキリストに、彼の霊の目は開けたのであろう。それは彼が心を空にして、真っ直ぐにキリストを見つめて、目を離さなかった恵みである。

 

また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。
イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。(40~41)

 

弟子たちが逃げても、沢山の女たちは、イエスの十字架のすべてに付き添い留まっていた。
此処はサタンの戦場である。女は戦士ではないから立ち果せるのだ。信仰には平和と弱さが武器となる。

 

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)

 

すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、
アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。(42~43)

 

私たちは、御用の時を腹を据えて待っておれば良いのだ。神の国を待ち望む者は、時が来たらすぐに「アーメン」と答えて、備えられたことばを語るのである。

 

アリマタヤのヨセフは、イエスさまの喜ばれるお顔を見るわけでもなく、無力な御体を葬るということであった。彼は信仰とキリストへの愛によって、処罰をも厭わぬ勇気で申し出たのである。

 

有力な議員という立場にあれば容易いことであろうか、守るものが多いほど人は何もできなくなるものである。
彼も、初めに神の選びによって備えられていたのだ。神に選ばれた光栄を全うして、彼の名は聖書に残された。

 

ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。
そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。(44~45)

 

どんな危険な役割も、示されたことを行うなら神のご計画の通りになる。
しかし、ヨセフが時を移さず全うできたのは、イエスが十字架に処せられている間も、自分の信仰を守り、イエスさまから目を離さなかったことを現わしている。

 

そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。
マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。(46~47)

 

無残なイエスの亡骸を亜麻布に包み、新しい墓を掘って葬る彼の信仰は、何処まで知っていたのだろう・・、イエスさまの復活の約束をどこまで聞いていたのだろう。

 

その時は誰がほめることではなく、頼る方を葬ることはやりがいのあることではない。
たまわった役割を全うする力は、キリストを愛する心から湧き出るものだった。この時の、アリマタヤのヨセフには他に何も無いからである。


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