天地創造の神は、アダムがみことばに逆らって入った罪により、神から身を避けて滅ぶ者となった人類を救おうと、御子イエス・キリストと聖霊によって人を御許に取り戻し、滅びから救うことを計画された。
イエス・キリストはご自分が創造された、人の世に無力な赤子として下り、人の罪をすべて負って十字架で贖ってくださった。完全に罪の無い人だけが、他人の罪を贖うことが出来るからである。
聖霊なる神は、キリストが十字架で罪をあがなって墓に葬られ、三日目によみがえって、500人以上の弟子に現れて天に昇られた後、助け主として来てくださり一人ひとりの内に住んでくださっている。キリストの救いのことばを信じるための助け手である。
父なる神は救いの方法も、救いの時も、救われた後の働きも十把ひとからげではなく、個々に母の胎で組み立てられる時から、良い計画を持って造ってくださった。聖霊が一人ひとりのうちに住まわれたのは、神のご計画が一様ではないからである。
人類が誕生以来、数えきれないほどの数であろうとも、一人ひとり神の愛の作品である。たとえ一日しか生きられなかったとしても、その無力な命も神の愛深い計画にあるのだ。
エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。(伝道1:1~2)
もし、人の言葉の知恵や知識だけがすべてならそれは空しい。神の愛を知らない命は、生まれては時が来たら死んで行くもろもろの命と同じ値である。神は人をそのようには造られなかった。
私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。
私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。(13~14)
聖霊に拠らなければ、神の創造の計画を知ることは無くそれを生きることもない。神の子の命が支払われたほどの価値を悟ることも無く、神の悲しみとなる。
私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。(16~17)
伝道の書を書いたソロモンの老後は、狂気と愚かさを知る時でもあったろう。彼の苛立ちは聖霊の臨在を求めてのことである。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。(18)
知識も知恵を積み重ねても、それは同じことを教えているだけである。一度知ったことを新しく知ることは出来ない。
しかし聖書は終生聴き続けても、日々に新しい発見があり、昨日とは違う今日に気づかせ、主を知る喜びと感動をもたらせて、今日神のご計画を生きることを導くのである。それこそ聖霊が一人ひとりのうちに住まわれる意味である。
主に出会って以来、日々に導く折に叶ったみことばは、主に出会わせて新しい力と勇気を与え、キリストの平安による確信の中で試練に立ち向かわせ、神の計画を生きることを得させるのである。
聖霊が味合わせるキリストの充満の中で、使徒たちの感謝と喜びと力は生涯彼らを支え、彼らの生まれつきをはるかに越えて、生ける神のことばが世に現れた。それは彼らのうちに居られる、三位一体の神の完全な働きに拠る事である。
聞くみことばや語るみことばが、もうすべて知っていることなら、それ以上何を期待をして聴き続けるだろう。それはソロモンの知識のようである・・。「それらは全部知っています。」というみことばを、何十年も聴き続けることに何の意味があるのか。
「すべて知り尽くしているが時間を捧げて忍耐強く読みました」それは肉を肥やすことでしかない。
しかし聖霊の交わりは、何十回目かわからないページから新しく主にお出会いするのである。
「今日このタイミングで!」新しく出会ったみことばの感動と備えに、主に覚えられている身の幸いを知って期待と信頼は深まり、常にすべてのことに先だって、みことばに耳を傾けるのである。
誰もわずかな寿命で神を知り尽くすことは出来ない。聖書はいつでも新しい言葉に満ちている。それゆえ世がどのように変わろうとも、生涯信頼して止まないいのちの灯火である。