石ころ

奴隷に留まるな(申命記15章)

 

 もしあなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目には自由の身として、あなたのもとから去らせなければならない。
その人を自由の身として去らせるときは、何も持たせずに去らせてはならない。(12~13)

 

同胞を奴隷として使うことが許されていても、神の民であることは変わらず、彼らは主の命令によって七年目には解放された。

世で虐げられて来た者もキリストの御救いに命を託すとき、その信仰によって神の子とされ、主の備えの中で生きる者となる。
罪の奴隷状態から解放されて、永遠のいのちをたまわり、神の子の喜びと感謝と賛美に生きる者とされた。

 

必ず、あなたの羊の群れと打ち場と踏み場のうちから取って、彼に分けてやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを与えなければならない。
あなたは、エジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主があなたを贖い出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、私は今日このことをあなたに命じるのである。(14~15)

 

奴隷を解放する時は、彼らの命の必要を与えるように命じられた。すべての財産は神から与えられたものだからである。
エジプトの奴隷状態から解放されたとき、神が彼らを養って命の必要をすべて満たし彼らは生きて、今財産まで得るに至ったのである。神の救いを忘れる時に身も魂も貧しくなるのだ。

 

しかし、その人があなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいて幸せなので、「あなたのもとから去りたくありません」と言うなら、
あなたはきりを取って、彼の耳を戸に刺しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。(16~17)

 

 奴隷は日々の生き方を選択する必要はなく、すべて主人が決める。自由の身となった瞬間から自分で判断し、成功も失敗も一人で負うことになる。
それゆえ人は自由よりも奴隷状態を好むことがある。主人は自分の財産である奴隷を、生かすために必要を与えてくれるが、自由人は自ら状況を判断して決断し、自分の命を養う責任を日々負うことになるのだ。

 

自由を選び取るリスクを恐れて奴隷でいることを望み、心の中で何時でも自由に戻ることが出来ると考えてはならない。彼は終生主人の家に釘付けられた。優しさや居心地のよさは時に生きる目的を忘れさせることがある。

 

自由は何時でもどこにでも転がっているものではない。それは神が与えたチャンスである。
神は人を目的を持って造られたのであり、怠惰や無意味な時間の浪費には厳しい。たまわっている命の中で主の恵み応答し、与ったタラントを完全に用いる義務があるのだ。

神に命じられた主人が持たせる財産はタラントである。自由の身となった時それらを用いてみこころを行い、倍にして神と共に喜ぶためである。

 

 奴隷の家族は奴隷であり、自由のためには一人で家族を離れなければならない。キリストを信じた時も一人でキリストに従う。その時は穏やかな家族の関係は破壊される。
常に家族第一であった愛は、イエス・キリストが一番になるからである。しかし、そのとき主の備えてくださった罪からの自由を掴まなければ、みな奴隷のままに滅びるのである。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)

 

「生きることはキリスト」とはエジプトから脱出して、主の備えてくださった地に行くために、主に信頼して勇気をもって生きることであり、それはキリストと共に死んでキリストとよみがえることを経験させ、やがて家族を巻き込み永遠のいのちに至る道である。

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。(ピリピ1:21)


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