石ころ

恐れと平安




 自分の言葉の内に矛盾しているものがある。恐れと平安そのどちらも事実。
「神の御子が、十字架でいのちをもってあがなってくださった」という事実によって、この罪深いつまらない者が、とんでもない価値をつけられたことから起こる混乱でもある。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)神様のご計画によって付けられた価格。
だから自分の実体と恵みの大差を見て揺れるのだ。

 イエスさまは未だ悟りのない弟子たちに、ご自分の肉であるパンと血であるぶどう酒を準備しされ、ご自分のいのちを与える場所をも準備してくださった。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:54~56)

 キリスト者とは、初めに神によって選ばれ御子によって完成された者。
高価な宝石の並ぶショウウインドウに置かれたように、身の縮む思いをしてしまうのだ。どうにかして相応しくなろうとしてしまうのだ。

しかし、すでに主が完成してくださったことに平安を見いだせない人の中では、サマリヤの女はいつまでも叫びつつ走り続けることになる。知ってしまった十字架を負って・・。

支払われたキリストの値打ちに留まることによって、十字架は私たちのうちに成就する。賜った分をそのままに「ハレルヤ、アーメン」と受けて、感謝と賛美に明け暮れるのみなのだ。
すべてを完成してくださったイエスさまの「あなたがたに平安があるように」という御声を、心が揺れるときは深く聴いていよう。

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル13:14~15)

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