神様が完全に沈黙されたのは、人類の罪を負って罪人となられた十字架上の御子に対してであった。
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マタイ27:46)
テレビで、映画「沈黙」の宣伝を見た。信仰の入り口で読んだことは思い出したが、内容のほとんどを覚えていない。あの頃は三浦綾子さんの小説なども手当たり次第に読んでいたけれど、みことばを生きて行く中で淘汰されて記憶にない。
受洗した直後にk牧師に紹介されたオー・ハレスビーの「祈り」は私の信仰の教科書となった。痛んですっかり色が変わり、赤や青の鉛筆の線だらけの小冊子は手元に大切に持っている。
この本から、祈りを通してどの様なことでも神様とお話しをする術を学んだ。
ウオッチマン・ニーの「キリスト者の標準」は、無くなると聞いた時に買い換えて奇麗だ。この本からは書かれている言葉だけではなく、行間に流れる霊の深い導きを受けた。
これらは頭の中の作り物ではなく信仰を生きた人の霊と、神の霊の交わりがあった。神は霊なのでキリスト信仰は霊によらなければ、真実を知ることはないのだと思う。
今もどのページを開いても即座に「アーメン」となる。
聖書は、神が祈りに答えようと答えまいと、等しく親切で慈愛深いことを教えています。彼が祈りを聞かれるのは、私どもを愛したもうからです。また、神がききたまわないのも私共を愛したもうからです。「祈り」より
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