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石ころ

今朝のみことばから・・(3月26日)



マリヤがイエスさまに香油を注いだことで、彼女は弟子たちから責められたという。良いことをするとほめられるのは当然、でも、それは幼いときの話。
イエスさまも幼い時、「神と人に愛された。」とある。
しかし良いこと、神のみこころによって人を救うための十字架では、彼は神にも人にも捨てられた。このことは歴史上の事実である。

魂の上での良いことは人にほめられるけれど、霊における良いことは迫害を受ける。それは魂にとって理解出来ないことであり、魂は自分の理解出来ない行為を嫌悪するから。魂は賢くて、なんだって自分の支配の下に置こうとするから、理解不能なことがらは排除しようとする。

でも、マリヤは彼女の犠牲を誰からもほめられなくても、いや、人からどんなに責められても満足なのだ。彼女は「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:37)というイエスさまの言葉を聞いたからである。

それだけで十分なのである。そのおことばの価値をよく知っているから・・。
そのことばの価値を知っている者だけが、マリヤの捧げ物をイエスさまに捧げることができるのだ。主の必要を満たす働きを成すことができる。
今このように、福音書に彼女の記事があることは、このときの彼女の与り知らないことなのだから。


この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイ26:12~13)

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コメント一覧

イチゴ
「丸投げします」その手がありましたね。
むしろ丸投げせざるを得ない状態にまで追い込まれることが、神の方法なのでしょう。避け所であるということは、避けずに出てゆけば死に近づくのです。
「落ち着きはらって言う・・出来ない」と書きましたが、落ち着けてるようなら、未だ魂と肉に有り、十字架ではないですね。すぐに「出来ない」と考える私のしつこい性質に気づくことが出来て感謝してます。あきれてもいますが。
本当に神の御性質は、想像を超える深さで迫ってきます。主を崇めます。
ムベ
イチゴさんコメントありがとう
世にあっては大方のことで、私がほめられるような者でないことは事実です。
そのことは良く分かっているのです。

ただ、時に理解出来ない責めに出会った時、
「放っておきなさい。」と慰められたり、
また、「ほめられなくても良いのだよ。」って力づけられたり・・。

そういう平安を、このことを知っていることで、保てます。


主人も子供も、時には自分自身でさえも・・理解不能に陥ることがあります。
そんな時は、イエスさまに丸投げします。
主は私の避け所です。
イチゴ
霊における良いことは迫害を受ける・・魂は賢くて、なんだって自分の支配の下に置こうとするから、理解不能なことがらは排除しようとする。
明快な説明に感謝いたします。
この場合、自分が誉められないのは、迫害されたとて主の喜びがストレートにありますが、家族がその状態の時に、例えば自分の子が、魂で理解できぬ困難の中へ突き進もうとしているとき、私の命のためにしてくれてるのだと 私は落ち着きはらって未だ言えません。いずれ そうしてくださる主であると受け取ってはおりますが。
春がいよいよ増して美しく漂っています。私も鳥の声に耳を澄まして、良い鳴き声を聞き分けてみたいと思っています。
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