マリヤがイエスさまに香油を注いだことで、彼女は弟子たちから責められたという。良いことをするとほめられるのは当然、でも、それは幼いときの話。
イエスさまも幼い時、「神と人に愛された。」とある。
しかし良いこと、神のみこころによって人を救うための十字架では、彼は神にも人にも捨てられた。このことは歴史上の事実である。
魂の上での良いことは人にほめられるけれど、霊における良いことは迫害を受ける。それは魂にとって理解出来ないことであり、魂は自分の理解出来ない行為を嫌悪するから。魂は賢くて、なんだって自分の支配の下に置こうとするから、理解不能なことがらは排除しようとする。
でも、マリヤは彼女の犠牲を誰からもほめられなくても、いや、人からどんなに責められても満足なのだ。彼女は「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:37)というイエスさまの言葉を聞いたからである。
それだけで十分なのである。そのおことばの価値をよく知っているから・・。
そのことばの価値を知っている者だけが、マリヤの捧げ物をイエスさまに捧げることができるのだ。主の必要を満たす働きを成すことができる。
今このように、福音書に彼女の記事があることは、このときの彼女の与り知らないことなのだから。
この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。(マタイ26:12~13)
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