石ころ

旅立つ民 ②(民数記33章)

 

彼らは第一の月、その月の十五日に、ラメセスを旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエルの子らは、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。
エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。主は彼らの神々にもさばきを下された。(3~4)

 

神がイスラエルの民を、奴隷として支配して来たエジプトから脱出させられるとき、王の頑なさによってエジプト人の長子から家畜の長子までを打たれた。そこで王はイスラエルの民を解放したのだ。

 

彼らの信じる神々は、彼らを守れなかったことで恥を見たのである。生ける神の力を彼らは見たのであり、ご自身を証される神のわざによって、エジプト人も真の神を恐れて知るためである。

 

イスラエルの子らはラメセスを旅立ってスコテに宿営し、
スコテを旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。
エタムを旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテの方に向きを変え、ミグドルの前で宿営した。
ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。(5~8)

 

主の御わざの日々が淡々と書かれてある。海の真ん中を歩いて渡り、追手の兵士は波に飲まれることのを見た。それらはすべて生きて働かれる神を民が経験するためである。

 

主の御わざに人の理屈や説明などは無意味である。主は私たちに「見ずに信じる者は幸いだ」と言われた。人はみことばを聖霊の助けによって悟り主に応答するのである。神は霊なので霊によって神を知るのだ。

 

ドフカを旅立ってアルシュに宿営し、
アルシュを旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
それから、彼らはレフィディムを旅立ってシナイの荒野に宿営し、(13~15)

 

此処でも神はモーセを用いてご自身を証された。モーセが岩を打つと水があふれ出て、人も家畜も潤された。主は40年間彼らを荒野で養われた。

 

今も世の荒野で真理に渇く者を養ってくださる主である。渇く者には聖霊が、一人ひとりに交わりの中でみことばを解き明かし、それぞれの環境に在って、生きて働く神のわざを経験させ御許に行くまで、近しく主を知るように育て続けていてくださる。


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