すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:20~21)
お金もあり、地位もあり、行動力もあり、育ちも良い申し分のない人。しかし彼には一つの欠けがあった。それゆえ彼は永遠のいのちをあきらめて、救い主の元を去って行った。
彼の一つの欠けとは、それは主に寄り頼むことであった。「人には出来ない」ことを知り、「神にはどんなことでも出来る」ことを経験することである。
イエスさまの慈しみの御目は、幼子とは真逆の彼の熱心に対してではなく、これから課せられる内容に対して、彼が主の慈しみに逃げ込むことができるようにとの備えであった。自らの弱さを受け入れて、主の慈しみに身を避けることができるのだから・・。
彼は、世の富と永遠のいのちを天秤に掛けて敗北した。しかし、それでも彼は立ち去るべきではなかった。御前にひれ伏して憐れみを請うべきであった。しかし、彼はこれまでそのような生き方はしてこなかった。彼は常に背を伸ばして、すべてのことを自力で成し遂げてきたのだろう・・。
天の御国、それはいかなる人の力をもってしても得られるものではないから、イエスさまの十字架を天の父なる神様が備えてくださった。
そのお方こそ「尊い方」であるとイエスさまは言われる。
いのちのために失うものがあることは幸いなのである。多く失うものがあるなら多くの証をたてること、天に宝を詰むことが出来るのだから・・。
でも、イエスさまは人の心をよくご存じであるから、金持ちが永遠のいのちを得ることの難しさを言われたのだろう。
この世の必要が満たされている中で、人はこの世のすべてを投げ出すほど熱心に永遠を求めることはないものだ。この世での悲惨の中にあるときに、人は真に永遠の望みを探る事が出来るのだと思う。
暗闇に覆われるときは、イエスさまの慈しみの御目が注がれているときでもあるのだと思う。
人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。(マタイ16:26)
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