マルコの13章は終末の記事。繰り返し読むとき、イエス様から十字架のことを聞いた時の、弟子のとまどいがわかるような気がした。私たちには先のことはわからないから、それが自分の思いに近いときにはすんなりと受け入れることができるけれど、思っても見ないことや、思いたくもないことを告げられるととまどってしまう。それは、受け入れるためには覚悟を決めなければならないから。
でもそれらは決して突然なことではなく、日々みことばを通して近しく主に接している昨日、今日、明日の上にあることなのだと思った。みことばを教える聖霊は導いてくださるから、私が人の噂に惑わされることはないだろう。なぜなら、私の霊は違和感というアンテナを持っているから「その話はいったいどこから出てきたのかよく吟味しなさい。」と教える。
こんなささやかなブログであっても言葉を導いてくださり、私自身いつも何かを知らされるという不思議を経験している。知っているから書くのではなく、書きつつ模索しているうちに教えられている。
「その時がいつかわからないのだから、目を覚ましていなさい。」と繰り返し書かれている。でも、ペテロ達は起きてはいられなかった。眠り込んでしまっていた・・・。
ああ、そうだ。今、私たちには聖霊という助け主がおられるから、イエス様を忘れて眠り込んでしまうことはない。私が眠っているときも、遊んでいるときも、食べているときも息のように私を生かす力だから。
一度は死ぬべき体をもっているからこの世の終わりは誰にでも平等にある。年を取るとその時を常に意識するようになる。どのようにその時を過ごせばよいのだろうとも思う。けれども、まるで手錠をかけられて生きているかのような、この肉の体を脱ぎ捨てることができるのはクリスチャンにとっては最高の喜び。
しかし、問題はその前に越えるべき未知との遭遇がある。誰にとってもその時は初めての経験だから恐れもあるけれど、私はイエス様の舟の中。嵐の中で何もできなくなったらイエス様の平安が私の平安。波にたゆとうていれば良い・・・。
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)
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